ミクロ経済学特講 シラバス(未定稿)

「ミクロ経済学ってウソだよね」

 ミクロ経済学は理念型(idealtypes)です。話の辻褄が合うように作られた、どこにもない世界の話です。経済学的に大事だと思う要素だけを理念形に残し、あとは切り捨てているから、はっきりした結論が出ます。実際の世界で、そのようなはっきりした結論が得られないのは、実際の世界ではもっといろいろなものが人間の手足にくっついて、縛ったり抑えたりするからです。そして、これも大きいのですが、人間はもっといろいろなことを大事だと考えているからです。

経済心理学と限定された合理性(第1回-第2回)

機会費用は計算できるか

 ある外国為替の決定モデルで、合理的に市場を均衡させる為替レートを求めるためには微分方程式をひとつ解かなければならない、という結論が提示されたことがあります。時々刻々市場の状況は変わっているわけですから、そのモデルに従う合理的な市場参加者は、何度も何度も微分方程式を瞬時に解いていることになります。

 経済学っぽい、合理的な行動を煎じ詰めると、機会費用を常に意識し、それをゼロにする行動だと言えます。それは簡単に言うと

「出来ることの中で、一番得なこと(一番損の少ないこと)をする」

 ということです。しかしそのためには、自分に出来ることが全部分かっていなければならないし、何をすると何が起こるか、結果の予想が完全についていなければなりません。要するに、ありえないほど物知りで頭のいい人でないと、合理的行動なんか出来ないということなのです。

 しかし考えてみると、「頭のいい行動」とはどんな行動か、説明するのは難しいですね。ハーバート・サイモンは、人間は合理的な判断をやりぬくことはできないし、実際やってもいないという意味で「限定された合理性」というキーワードを使いました。そのあとサイモン自身は、特定の(限定された)合理性を持つ人工知能の研究に向かっていきます。人間の持つ限定された合理性をより深く説明することは、なかなか進みませんでした。

不確実性とリスク

 フランク・ナイトは、確率的に予測できる不確実性と予測できない不確実性を分け、前者に不確実性(uncertainty)、後者にリスクと名づけました。

 世の中の大もうけや大損は、リスクによるものですよね。成功するとみんなが思っていてもコケる事業があり、その逆もあります。ところがミクロ経済学は、このように定義された「リスク」を扱うことが、まったくできないのです。「めったに起きないこと」を一種の不確実性として扱うことは出来ますが、それは不確実性であってリスクではありません。

 簡単に言うと、期待値を計算できるなら、それは不確実性です。リスクは、期待値の計算そのものができません。最大化のための計算が(不完全にしか)できないとき、合理的行動もその合理性を限定されます。

 もちろん、「起きてしまったこと」「みんなが気づいたこと」が市場に少しずつ伝わる様子をパターン化したり、計測したりすることは出来るのですがね。

経済心理学(1) システム1とシステム2

 ダニエル・カーネマンは2002年のノーベル経済学賞受賞者で、「経済心理学」の創始者です。これはカッコイイ言葉なので、他の人が別の理論を指して使っていることがありますが、ここではカーネマンの経済心理学について述べます。

 カーネマンたちは、人間の頭の中ではふたつのシステムが同時に働いていて、どちらかが前面に出てくるのだ、と言います。片方は「直観(intuition)」のシステムであり、意識的に考えることなく、いつもの通りに物事を処理します。もう片方が「理由付け(reasoning)」のシステムであり、時間をかけてちゃんと考えて意思決定をします。前者の「いつも通り」やっている部分は、「いつも」と違った細かい条件の違いを考えないという意味で、合理的でない部分があります。

経済心理学(2) フレーミング

 人間は100円もらえるチャンスを棒に振るより、いつももらえる100円がもらえないことを気にしますし、それを防ぐために時間やお金をつぎ込む傾向があります。別の言い方をすれば、人間の頭の中には「いつもはこれくらい(もらえる、取られる、しんどい、etc)」という参照点ができていて、そこから見てプラス方向とマイナス方向では、同じ金銭的な額でも、人の心での重みが違うのです。もう少し大雑把に言えば、人間の心の中には「〜とはこういうものだ」というフレームがたくさんあって、そのフレームよりいい方向と悪い方向では人間の印象や、それに対する反応が違ってきます。人間が心の中にフレームを持ち、それにとらわれることをフレーミングと言います。

参考文献

情報の完全性(第3回-第4回)

効率市場仮説

 効率市場仮説はもともと、金融市場の買い手・売り手がミクロ経済学の教科書どおりに、すべての情報を取り入れて価格決定に反映させている、という仮説です。主に金融市場で研究されていますが、これは「同じものの取引価格が時々刻々記録されていく」データが金融市場くらいしか手に入らないためで、どんな財の市場でも「教科書どおりの、理想的な」市場があるとしたら、すべての情報を瞬時に価格に反映させているはずです。

 言い換えれば、ミクロ経済学の教科書にある市場では、売り手も買い手も自分が取引しているものの中身や将来の人気について、完全にわかっているのです。現実にはそうではないので、色々なことが起こります。

インサイダー情報、仕手筋と共謀

 会社の経営者や担当者は、会社の状態や意思決定について、真っ先に情報をつかみます。値上がりしそうなら今のうちにたくさん買えばあとで転売益が出ます。値下がりしそうならすぐ売れば損を防げます。こういう、特定の立場でないと知りえない情報を持つ人が株の売買をすると「インサイダー取引」として証券取引法違反になります。

 ここまで明白なものではなくても、株式取引では「誰が何を言っていた」というヒソヒソとした情報が飛び交っています。ケインズが「美人投票」の例を使ったのは有名ですが、「他人が上がると思った株は買われて上がる」のは真実なので、他人がそう信じ込んでいる限り値上がりするだろう、というのは合理的な予想なのです。

 そう考えると、株価が上昇・下落したこと自体、投資家にとって重要な情報です。「テクニカル分析」といって、企業の経営状態や景気などに関する情報(ファンダメンタルズ)は脇において、株価のグラフだけを見て今後の変化を予想することは、広く行われています。

 テクニカル分析に頼るトレーダーがたくさんいるなら、共謀して(あるいは巨額の資金を複数名義で動かして)安く買い集めておいた株の価格を吊り上げ、他の買い手が集まってきたら売り抜けよう、と考える人も出てきます。これが仕手(筋)と呼ばれる人たちで、ヒソヒソ話(風説の流布)もからめて、株価の操作を狙います。もちろん、他の仕手筋が反対方向の取引をして、相手に損をさせて自分が巨額の利益を得ようとすることもあります。これが仕手戦です。

 今の例は株式市場ばかりでしたが、原油・小麦・金などの商品市場、国債などの債券市場、為替市場にも投機資金は自由に行き来しますから、似たようなことは起きます。  

情報の非対称性と監査・プロジェクト評価

 たいていの場合、売り手のほうが買い手よりもその商品についてよく知っています。取引者の持っている情報に差があることを情報の非対称性といいます。アカロフのレモン(逆選抜)のモデルは有名ですね。商品のことをよく知っている側は、あまり知らない側の人との取引を有利に運べます。他人に評価・監査してもらって、「情報を買う」ことで問題が和らぎますが、情報を売る人が中立的とは限りません。

情報の不完備性

 商品の情報以外の情報を知ったり隠したりすることも、実際の取引では重要になります。例えば「自分はどうしてもこれが欲しいわけではない」振りをすることは、値切るときには重要ですよね? ゲーム理論の言葉で、相手の行動以外のもの、例えば消費者の効用関数や企業の利潤関数が一部の取引者(たいてい本人)にしかわからないことを、「不完備情報が存在する」といいます。

 こうした情報の不完全性・不完備性があるとき、市場参加者は自分より手馴れた参加者の食い物にされないよう用心しなければなりません。政府はもちろん、情報をタダで配って回れば悪質なケースを防ぎ、消費者に喜んでもらえるのでしょうが、よく考えるとそれは消費者の税金でやっていることです。効果の薄い情報提供なら別の用途に税金を使ったほうがいいでしょうし、消費者自身が情報処理の余裕を持つかどうかで、効果は変わってきます。いずれにせよ、実際の世界はミクロ経済学の教科書にある完全情報の世界ではないので、そのことが教科書の世界と実際の世界を違ったものにします。

参考文献

取引費用(第5回)

裁定と金現送点

 ミクロ経済学の世界では、市場に出かけるために交通費や時間はかかりません。実際には、取引をするためにはお金と時間が必要になります。働きに行けば時間はお金に変わるのですから、どちらにしても、取引には費用がかかるのです。

 もし取引費用がゼロで、違う場所で同じものに違う値段がついていたら、誰でも安く買って高く転売しようとするでしょう。これを裁定(行動)といいます。取引費用があると、わずかな価格差では裁定しても損ですが、多かれ少なかれ市場では裁定が行われます。裁定が実際には行われなくても、その可能性を市場参加者は頭に入れています。  世界中が金本位制を取っていた時代には、各国通貨の為替レートが大きく変化すると、一方の国で紙幣を金に替えてもらってもう一方へ金を輸送し、その国で紙幣にしてもらうと得になりました。だから為替レートは、それぞれの紙幣と交換してもらえる金の量でだいたい決まり、その比率から大きく外れることはめったにありませんでした。金を送ったほうが得になる、ぎりぎりの為替レートを金現送点といいました。金を送るという裁定行動が、実際には滅多に起こらないのに、いつも為替レートに影響を与えていたわけです。

ネット価格比較とロードサイド店・郊外大型店

 ある商品がいくらで売られているか、多くの売り手から情報を集めることは、時間も、時にはお金もかかります。逆に、価格を宣伝しようとしても、やはりお金がかかります。だから、「急いでいる人しか買わないような店」「価格に敏感な消費者がたくさん集まってくる店」ができます。店にもタイプができるし、消費者にもタイプがあるのです。例えば大正〜昭和初期の日本では、生活必需品の小売店は家庭まで「御用聞き」に回ってくることが多く、消費者が比較しようにも他店の価格は調べづらいものでした。この時期に政府は中央卸売市場や公設小売市場を全国に作っていきますが、そこでの価格を新聞などに広告して比較させることも狙いのひとつで、物価抑制政策でした。

 例えば、消費者が自動車で買い物に出かけるようになって、はじめて大きな駐車場を備えた郊外型大規模小売店の意味が出てきます。そのことによって、地価が高く土地の所有権が細切れになった中心市街地は、消費者を失って「シャッター商店街」となってゆきます。自動車が運転できなくなった老人や、徒歩と公共交通機関に頼る身障者は、こうした変化によるマイナスの影響を、他の人よりも大きく受けます。

 同じように、インターネットを活用できる人と、いろいろな理由でそれが難しい人の間には、便利なインターネットショッピングや情報収集に参加できるかどうか、という差が生じます。これがデジタル・ディバイドです。

ドミナント出店

 消費者にも移動費用がかかりますが、メーカーや卸・小売店にも商品を運ぶ費用がかかります。小売店ごとに間違いなく少量の注文品を仕分けるピッキング施設は大規模なもので、1ヶ所で多くの仕分けを引き受けることで多額の設置・維持費用をまかなっています。トラック輸送の都合から言っても、狭い地域に多くの店舗が集中していたほうが、店舗あたりの輸送費用は安くつきます。また、自分のチェーン店が短い距離で並んでいると、その間に割り込んでも新しい店が一番近い消費者は少ししかいないことになります。

 こうした考えに立った、一地域への集中出店をドミナント出店といいます。もちろん他のチェーンも対抗するので一方的に言い分は通りませんが、ひとつの地域で競争力を持てるチェーン店の数はごく限られてしまいそうですし、独立店は同じものを売っていては価格や鮮度(納品頻度)で太刀打ちできないことになります。

グローバル化と世界経済への統合

 中国製品は主に低価格を武器に日本市場のさまざまな分野で大きなシェアを獲得しました。それは日本の消費者が有利な取引の機会を得たことでもあるのですが、日本市場への従来の供給者には、仕事を失ってしまった人たちがいます。それはまさに、日本自身の企業や労働者を多く含みます。

 社会そのものが変わるわけですから、いろいろな理由でこれに反対する人たちがいます。それらは反グローバリゼーション運動と総称されていますが、その立場は色々で、それぞれの運動が自分たちの理想にあわせた運動の名称を唱えています。

参考文献

次回に向けて:論理的な文章のまとめ方

議論と小論文(第6回)

効用関数は不変か(第7回)

ニーズとウォンツ

 マーケティングでは、ニーズとウォンツというふたつの言葉を区別して使います。いろいろな説明がありますが、ニーズは経験に基づく需要、ウォンツは隠れた(まだそれを満たす財やサービスがない)欲求、とここでは理解しておきます。

 ミクロ経済学のモデルは、効用関数が確定したところから始まります。効用関数をどうやって求めるか、皆さんは習いましたか? 習っていないでしょう。効用関数があらわす選好(消費者の好み、望み)と、生産関数・費用関数であらわされる生産技術は、ミクロ経済学の市場モデルにとって、問題を解く前に置かれる大前提です。

 生産の可能性がどうある「べき」か、などと社会科学的に妄想しても始まりません。自然科学的に技術開発するしかありません。公害問題や安全性問題はまた別ですが。しかし消費者の望み・好みの隠された部分を見つけよう、あわよくば説得して変えよう、という試みは毎日無数に行われているのに、ミクロ経済学はそこのところは見ないことにしているのです。

バンドワゴン効果、ヴェブレン財

 他人が使っていると自分も欲しくなる、という覚えは誰にでもあるでしょう。これはバンドワゴン効果と呼ばれています。また、ある種の贅沢な品物を持つ(消費する)ことで、自分の社会的なステータスの高さを感じて満足する人もいます。こういう財を、ヴェブレン財といいます。

 消費にはこのように、他者とのかかわりで効用が決まるものもありますが、ミクロ経済学にこのような要素を加えるとたちまち方程式の次数が上がり、誰にも解けない問題ができてしまいます。

ネットワーク外部性(ミクロ経済学の拡張として)

 他者が使っていることによって自分にとっての使い勝手が上がる、というものはあります。Windows、Microsoft Officeなどは他の人とのデータ交換に便利ですし、関連ソフトもよく売れるので単価を下げてもやってゆけます。ビデオ、光ディスクなどでは、どの企業の規格が多数派になるか熾烈な競争がありました。こうした、利用者が増えることによってそれぞれの利用者の効用が増す現象をネットワーク外部性といって、すこし難しい経済理論モデルが研究されています。

参考文献

需要関数は(ほとんど)実測できない(第8回)

需要関数推定の難しさ

 需要関数と供給関数ですべてが解けるかのようにミクロ経済学では教えますが、実際に需要関数や供給関数の例が教科書に載っていることはほとんどありません。実際、推定されて論文となっているのは農林水産物か、思いっきり大雑把なカテゴリで「医薬品の需要」などを推定したものがほとんどです。身近な特定ブランドの工業製品について、需要関数が推定されることはほとんどないのです。

 その理由はいくつかあります。まず、特定製品の価格変化をどうつかまえるかが問題です。工業製品のメーカー希望小売価格はめったに値下げされず、店舗ごとの店頭価格が小刻みに変化しますが、特定製品の店頭価格分布がわかるデータはほとんど存在しません。ましてや、特定製品がそれぞれの価格でいくつ売れたかなど、まったく分からないので、最低価格も平均価格も分からないのです。

 財の同一性をどう確保するかも難しい問題です。メーカーは値上げの印象を避けるため、少し違うパッケージの新製品を出すことがよくあります。逆に値下がりしたときも、店頭の混乱を避けるため型番を変更することがよくあります。何と何を同じ商品とみなせばいいのか、判断が難しいために、型番が変わって前のものが生産中止になると物価統計の調査品目から外されてしまうのが普通です。

 今までに世に出たことがない新製品については、データから推定すること自体が、出来ません。「今までのものと同じくらい売れる」としたら、今までに出ていた類似品は売れなくなってしまうということですが、そういうものでもないでしょう。

供給関数推定の難しさ

 供給関数については、特定ブランドの工業製品生産量・出荷量は企業秘密とされてふつう公開されない、という根本的な問題があります。費用データは、企業レベルで集計されたものなら有価証券報告書などで手に入りますが、製品ごとにそれを合理的に分離するのは困難です。これも、農業などでは(特定品目だけを生産する)農家のデータから推定できることがありますが、プライバシーの問題などから個々の農家のデータ利用は不可能か、厳しく限定されている(例えば研究者が研究計画を詳しく官庁に説明し、自分以外には決してデータを見せない・使わせないことを約束して提供を受ける)のが普通です。

 あのゲーム機は出荷何万台、などとよくメーカーが発表していますが、発表したほうが都合がいいときにだけ、ばらばらなタイミングで、大雑把な数が発表され、多くの場合それが間違っていてもメーカーは罰を受けるわけではありません。

識別問題

 識別問題という、需要関数・供給関数を推定するときに必ず生じる計量経済学上の問題があります。これについては、計量経済学の教科書などを参照してください。

参考文献

公害と外部性(第9回〜第10回)

「市場の失敗」と外部性

 市場の失敗とはもともと、情報の不完全性、独占問題といった非常に広い範囲の問題を含む言葉として定義されました。すでにこの講義で取り上げたトピックスの中にも、市場の失敗に含まれるものが多数あります。あまりにも多様なものを含む言葉なので、その意味を全部列挙することはやめます。ここでは、「外部性」という特定のタイプの市場の失敗だけを取り上げます。外部性の例として代表的なのは公害です。

 外部性とは、他者の行動の結果が自分の効用、生産効率などに影響を与えることを言います。他者に与える外部性はプラス(得)かもしれませんし、マイナス(損)かもしれません。  例えば100円未満で生産できる財やサービスがプラスの外部性を持つとします。費用負担者の手に入る収入が100円なら、その人はそれを作るでしょう。しかし社会全体が手に入れるものをお金に換算すれば、100円を超える収入が社会全体で生じているはずです。費用が100円を超えれば、その人は生産量を減らすか、やめてしまうでしょう。しかし損失がわずかなら、周りの人が外部性のおかげで増えた収入を出し合って、生産を続けてもらえば、社会全体としては得です。

 政府がプラスの外部性で得をした人から税金を取り、プラスの外部性を生み出している財やサービスに補助金を出せばよいわけです。

 マイナスの外部性を持つ財やサービスなら、逆になります。生産者に税金をかけ、マイナスの外部性で被害を受けた人に払えばよいのです。

 しかし実際には、被害の大きさを誰が見ても納得するように(税金を使うのですからね)測ることも、マイナスの外部性を出した量を間違いなく・漏れなく測ることも困難です。また生産活動の制限や禁止をしたり、補償金を間違いなく分配したりするためには多くの人手(費用)がかかり、これが外部性そのものの大きさよりも、公害処理にかかる費用を膨らませてしまいます。

コースの定理と社会的限界費用

 もし空気、水などすべてのものに所有権があって、使うことを監視・制限できるなら、次のようにして政府を介さず、市場取引だけで外部性を処理できます。

 その財がマイナスの外部性を持つとき、財の社会的限界費用私的限界費用より高い、と表現します。その差額は、他の人が受ける限界的な(マイナスの)外部性です。

 水や空気を使う・汚すことに対して、その「所有者」が限界的な外部性の分だけ「料金」を取ればいいのです。社会的限界費用が高くなる(供給曲線が左上シフトする)のですから、自然にその品物の価格は高く、販売量は少なくなります。それでも欲しいという消費者だけがそれを買います。これによって、市場取引の中で公害を生む商品の生産量を抑え、環境被害を環境の所有者に補償することができます。常にこのことが可能だ、という数学モデルの中での定理をコースの定理といいます。

 先ほど述べたように、実際には規制や処理に費用がかかりますし、騒音など所有権概念で処理しにくい環境要因もありますから、市場以外のシステムで外部性を処理するしかありません。

 官庁、公的機関、非営利組織はプラスの外部性を生む活動(例えば道路、街灯)を提供し、マイナスの外部性を生む活動を規制するために、市場取引以外の方法で絶えず多くの資源を配分していきます。そこにムダがあっても気づかれにくく、ムダを除去しようとする力もなかなか働きません。市場原理だけでは外部性を処理できないのはもちろん明らかなのですが、政府に資源配分を任せても非効率が出ることを皮肉って、政府の失敗と呼ぶことがあります。

番外:「かけがえのないもの」にどうやって値段をつけるのか?

 環境問題ではしばしば、例えば絶滅危惧種のような「かけがえのないもの(他に同じものがないもの)」を守るためにいくらまでなら出すか、という問題への解答を迫られます。

 美術品・コレクターズアイテム取引をイメージすると、最後にそれを買うのは、それに一番高い値段をつけた、ただひとりの人です。実際には多くの業者が転売を前提としてオークションなどに加わります。

 テレビ番組「開運! なんでも鑑定団」では鑑定士が出品物の値段をつけますが、その説明をよく聞いていると、「もう少し高い価格でも売れるかもしれない」と言っていることがあります。つまり、高い値段で買ってくれる人を見つけようとするほど、その品物は長く店頭にとどまることになって、ショップは資金繰りに困るので、ある程度の期間で売れるような価格をつけるのです。その期間に裁量の余地があるので、「もっと待つつもりなら高い価格をつけても、そのうち買い手が見つかるかもしれないが、普通はそんなに待とうとはしない」と言っているのです。

 私が見ていた回で、非常に古い雑誌やキャラクターものより、少し新しいもののほうが高い鑑定結果だったことがありました。そのとき鑑定士は、「働き盛りの人が買う年代の雑誌のほうが、すでに年金生活に入った世代に人気の雑誌より、高くても買う人がいるのだ」と説明していました。

 環境問題に携わる人は、たいていの場合多くの時間(と相当なお金)をその問題につぎ込んでいますが、その環境そのものを買い取るほどにはリッチではありません。実際には誰も買い取る人のいないものに価格をつける、という難しさがこの問題にはあります。

 ナショナル・トラスト運動は、募金を募って実際に歴史的遺産や名勝を買って保存しようという運動です。この場合、運動の趣旨を理解して、いくらでなら(安く)売ってもいいか、という売り手の判断と、運動側の判断で価格が決まることになります。今度はナショナル・トラスト運動という「かけがえのない運動」が値踏みされる、とも言えますね。

義援金(義捐金)の配分

 政府や公的機関が資源配分を任され、どう配分しても不満が残りやすい典型的なお金が、災害時の義援金です。同じ条件の人には同じ給付をする「べき」なのですが、その判断は誰か人間がやらなければなりません。家屋の評価額はばらばらですから、阪神・淡路大震災のときは家屋被害を「全壊」「半壊」に分けて、家屋の評価額にかかわらずそれぞれ一定額を配分しました。そうした業務は市役所や町役場に委ねられましたから、被害判定の責任もそうした公的機関が引き受けることになりました。

 それ以外の基準での配分は、医療機関が証明できる事項(死亡・負傷など)や、行政機関がもともと持っている個人データ(「ひとり暮らし老人」など)によるしかありませんでした。担当者ごとに基準が違う、という批判を避けねばならないからです。言い換えれば、被災者個別の事情を細かく判断することをあきらめた、ということでもあるのです。

租税収入の配分

 よく考えると、国や地方自治体の予算配分では、毎年無数の「かけがえのないもの」が集められ、人と人が相談して予算配分が決まります。同じ問題に毎年直面しているのです。1995年ごろから表面化した官官接待はそうした基本構造から生まれました。

参考文献

行列、くじ引き、ヤミ転売(11)

「安いものを見つけて高く転売する」ことを経済学では裁定行動といいます。裁定行動を誰かがやってくれるおかげで、売り手もそれに対して敏感になり、市場全体の効率性が保たれます。ミクロ経済学の理屈からは、裁定(転売)は悪いことではなくて、裁定のチャンスを作らないように売り手が価格や販売量を調整するものなのです。

参入・退出とコンテスタビリティ(12)

グローバリズムの光と影-複合的問題(13)(14)

後期試験(15)


トップ   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS