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モルヒネと努力と人間の値打ちについて
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<div style="font-size: medium"> ずいぶん前のことですが、取引慣行論の講義の中で、夜間主コースの学生さんからこんな質問を受けたことがあります。「麻薬というものは処方箋さえあれば薬局から買えますか」その人は老人の末期ケアの在宅看護に関心を持っていて、在宅患者が通院することなく、鎮痛剤としてのモルヒネを服用できるか知りたいということでした。 制度的には、できます。薬局や処方箋を出す医師に特別な資格が要りますし、処方箋にも患者の住所を書き込まねばならないなど一定の条件はありますが、基本的な仕組みは普通の医家向医薬品に似ています。そう答えると、学生さんは納得しました。 ところが、実は上の説明は大事な点を見逃している、ということを後で知りました。たまたまテレビのドキュメンタリーで見たのですが。 痛みを測る機械はありません。すべては患者さんの申告と、医師との信頼関係にかかっています。じっと我慢してしまう人も、痛みを大げさに言う人もいます。モルヒネの副作用を抑えるために併用する薬も含め、医師が定期的に問診して細かく処方を再検討しないと、モルヒネは医薬品として患者の役に立てないのだそうです。 努力もこれに似ています。努力しているところを人に見せたがらない人はいます。教師になって10年になりますが、学生さんが努力しているかどうかは、いまだに見当がつきません。ですから学生さんには、「努力しているね」という類のことを努めて言わないように心がけています。「努力しろ」ともあまり言いません。結果だけを見て、結果だけについて判断を述べるようにしています。「努力が報われる社会」というのがいい社会のように言う人がいますが、努力を測るモノサシについての新たな工夫がないとしたら、それはひどく不公平で不安定な社会であるかもしれません。 例えば同じ時間努力をしても、ふだんから努力している人とそうでない人では、心理的な負担はぜんぜん違うはずです。努力が身についてしまうことには値打ちがありますが、普段はしない努力を今日はした、ということにも別な値打ちがあります。こうなると人間としての値打ちを測っているようなもので、他人の値打ちを測ること自体意味がないように思えます。努力の程度そのものは測りにくいし、測ってもあまり意味がないのであろうと。 ところで、「[[大学に後ろ向きなあなたへ]]」にも書いたように、今後大学から何かを持ち帰れない学生さんは、4年間を過ごしたことが損になってしまうだろうと私は思っています。国立大学は各種の資格につながるような、専門的で狭い範囲の勉強を提供することにおいて、一部の私立大学や専門学校に劣っています。もう少し総合的な能力を身に付け、それをアピールするほうが、有利な競争ができるでしょう。 努力の方法を身につける、という考え方はどうでしょう。他人の言うことを理解し、努力する方向を決める能力。自分で調べ、自分でまとめる能力。そして、他人の興味や要望に合わせて、努力した結果をアピールする能力。 そうした経験や力は、いろいろな場面で活用することができます。誰も見たことのない状況に対応する力、というのがいろいろなレベルのリーダーに求められる力でしょう。しかし努力する力の困ったところは、急場になるまでそれを持っているかどうか示せないことです。それをどうやってカタチにするか。まさにそのあたりが、国立大学の学生が教官をもっと利用すべき点ではないかと思います。少人数講義やゼミに参加しなかったり、後ろ向きな態度で参加したりしている人たちは、国立大学にいることの利点を無駄にしていると思います。 </div> [[category:学部学生向け|もるひねととりよくとにん]]
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