夢を追うということについて
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2008年12月13日 (土) 08:24の版
夢はいつかかなう、などということを繰り返し叫んでいるメディアは、今も昔もあります。それを信じてがんばっている人も、昔からいるし、今もいます。そういった路線に乗り切れない、自分の居場所を見つけられない人も、これまた昔からいました。そういう人は、最近増えているのかもしれないし、隠れていた問題が表面化してきただけなのかもしれません。
無限の可能性があるのは、それを試してみるまで、というのは酷な言い方でしょうか。なりたい自分にそっくりそのままなれる人など、いないでしょう。もし特定の状態に達することが勝利で、達しないことが敗北であったとしたら、世界は敗北者でいっぱいになってしまいます。
目標に達しようと達しまいと、私たちは毎日生きています。毎日生きる姿勢を保つ上で、なにか目標はあったほうがいいし、その意味では10年後に一瞬だけ到達する目標も、今日を生きるために役に立ちます。人生の(遠い)目標の意味なんて、その程度のものだと思います。それがコンプレックスの源になるくらいなら、目標などないほうがいいでしょう。
目標を追うということは、一番大事なもののために、それ以外のものを犠牲にするということです。もし組織や社会のすべての人がそういう態度を取り始めたら、組織や社会はばらばらになってしまいます。
どんな組織にも、他人のわがままのつじつまを、黙々と合わせている人がいます。その人たちが自分の目標を追わない敗者として扱われたとしたら、その組織にはトラブルが多発するでしょう。社会には全体として余裕が必要ですし、それは常に不足しています。
いいことをする。立派なことをする。あたりまえのことをあたりまえに保つ。それらにはコストがかかります。物理的に資源を食う場合もあるし、手間がかかる場合もあるし、心理的なストレスがかかる場合もあるでしょう。人間や組織が負担できるコストには全体として限界があります。何にコストを払うか、資源の管理者それぞれが決めなければなりません。私はよく卒業する学生に、皆さんはこれから自分の財布からお金や時間を出して、自分なりの正義を買うのだ、その買い物の上手下手によってこれからの日本の姿が決まるのだ、と言います。どんな立派な目標も、そのために自分や周囲にかかるコストを意識せずに追い求めれば、自分や他人の不幸の種になることがあります。
自分は何が好きで、何が嫌いか。何のためなら苦労も耐えられて、何が我慢できないか。それは特定の遠い目標につながっていなくても、いままでの人生経験と持って生まれた性格を反映した、今日を生きる姿勢そのものだと思います。
他人のために尽くす、というのは立派なことのように思えます。しかし自分の好き嫌いや生き方を意識せずに、他人の都合を聞いて他人の幸せのために生きようとすると、やはり限界に突き当たるでしょう。他人はわがままなだけでなく、矛盾したことを言います。キャパシティも考慮しませんから、いくらがんばっても心底満足してもらうことはできません。自分のやったことにプライドを持つことが大切ですし、そのためには自分を大切にするということが、いくらか必要です。誰でも痛みなく実行できることをしても、プライドにはつながらないでしょう。限りあるもの、大事なものをつぎ込むことで、成果に誇りを持つこともできるようになります。
経済学者になって、夜間主コースの講義を持ってよかったと思うのは、偉い人からそれなりの人まで、じつにいろいろな人を観察できることです。大切に思っていること、怒っていること、悩んでいることは人それぞれです。社会のことを知れば知っただけ、その中での自分の夢、自分の役割、自分の生き方を、より具体的に言葉にすることができます。社会とつながっていない夢にしゃにむに向かって行けば、夢といっしょに自分まで社会から切り離されてしまうでしょう。社会の中でその夢はどういった立場、どういった姿勢とつながるのか。今日とりあえず何をすればいいのか。そういったことを考えて、初めて社会の中にその夢の居場所ができるでしょう。
今までそういったものは、就職してから考えればいいや、という風潮がありました。それは良いことではなかったと思えます。大学を出て大企業に入れば、日本全体が乗っている上りエスカレーターに、それなりのところまで連れて行ってもらえる。それは特別な国の、特別な短い時期にだけ通用することで、20歳を過ぎたらいつ自分の生き方を問われるかわからない、という現在の傾向のほうがむしろ当たり前なのではないかと。
自分の居場所は自分で見つけなければなりません。しかし他人が一方的に賞賛してくれるかどうかではなくて、かといって自分の喜怒哀楽にのみ沿って生きるのでもなくて、社会とのギブ・アンド・テークの関係を作って行くことが大事でしょう。それは最初のうちぼんやりしていますし、自分によっても他人によっても何度も修正が加わります。しかし年齢を加えるにつれて、周囲との関係の中で、ひとつの役どころが定まって行きます。もちろんそれで終わりではなくて、そこからの挑戦もまたあるわけですが、まず社会とそこに暮らす人々に触れてみるということが大事であろうと思います。