チームプレイの文化と単純なこと
出典: Hnami.net
経済学系のある研究所が、関係する審議会から「活動が十分に見えない」と酷評されているそうです(注:執筆時点は2003年)。著名で活発に活動している研究者が揃っている研究所で、再編話の噂を聞くたびに首を傾げていました。
まだ報告書自体を読んでいないのでこのケースについては細かい論評が出来ないのですが、教育面でよく問題になる「チームとしての成果」の問題が研究面でも出たのが、こうした酷評を食らった一因ではないか、と推測しています。
工学部などに多い実験系の世界では、研究はチームで行うのが当たり前です。研究をチームで行うのですから、予算もチームで獲得します。科研費の区分の中には個人でないと出願しづらいものもありますから、個人で出せるだけ出し、なおかつチームでも出願するのがむしろ当たり前だそうです。そしてひとつの研究機関にチームの中心があることが普通です。
ところが経済学を含む社会科学では、共同論文はあっても、たいてい所属機関の違う組み合わせです。言い換えれば、ひとつの分野の専門家がひとつの研究機関に複数いることは極めて珍しいのです。ですから共同研究の成果が上がっていても、それはどこの「組織」の成果かと問われると、明確になりません。ですから「組織としての研究実績を示せ」という評価のルール自体、実験系有利とも言えます。
しかし費用対効果の枠組をまったく無視してしまうことは、「談合によって、悪質な業者が入り込むことを我々は防いできたのだ」という建設業者の言い分に通じるものがあります。共同研究には共同研究なりの成果物があり、研究(支援)活動を総括し報告する方法があるはずです。実際には(研究上共有するものが、実験系に比べて少ないために)手間をかけて適切な活動報告をまとめることは容易ではありません。しかしそれがいよいよ研究機関の死命を制する時代になったんだよ、と言われると、そうかもしれないな、と納得してしまいます。
研究費がなければ何も出来ない、と言うのは人文系だろうが社会系だろうが一面の真実であって、それぞれ足りない分は自腹を切って本を買ったりしているわけです。ところが高価な設備や薬品・材料を必要とする分野だと、自腹どころではすみません。電子顕微鏡などになると特殊な水道配管も必要になるのでどこにでも置くというわけに行かず、床全体を改造することになるそうで、電子顕微鏡を当てようと宝くじを買っている研究者は実際に知っています。どうも1000万円当たったくらいで買える代物ではないようです。
こうした大学内部の文化摩擦が、陰に陽に大学内の議論に影を落としているように思えます。研究も教育も組織が大きくなければダメ、という意見と、組織として大きくなっても遠方に配置されては不便なだけ、という意見の対立は、実は知的生産技術の違いから来る部門間対立でもあります。
私はそれほど多くの資源を必要とするわけではないので、私の慣れ親しんだ知的生産技術を基礎として、それを学ぶ学生にとって何が得か、ということをこうした行政問題への判断基準としています。教職員には通勤手当が出ますが、学年が進むにつれ遠方のキャンパスに通わされる学生が出れば、通学時間の増加ないし転居費用については何の補償もできません。そうしたデメリットを埋め合わせるだけの素晴らしい大学改革の算段というものはあるのだろうか、と私は考え続けています。
実に単純なことだと思うのですが、重要なことはたいてい単純です。単純なことを単純に貫いていけるかどうか、正直なところそれほど自信はありません。しかしそれでも、いまできることを考えねばなりません。これは私が学生にしつこく説いている、単純なことです。