「研究」と「勉強」の違い

出典: Hnami.net

 経済学、経営学などの分野で、特定の先生の「教え」を単に言い換え、「教え」を守っている度合いによって業績の評価が決まる、などという世界は、控えめに言っても一般的ではありません。逆に特定の先生がいくら推しても、その人が公開の研究会に出るとゴマカシも何も利かない、ということのほうが多いのです。

「研究」と「勉強」の違いは、正誤を判断する方法を自分で持っているか、というところにあります。本に書いてあること、「エライ人」や「現場の人」の言ったことを無条件に真実として受け入れている限り、それは「勉強」であって「研究」とは言えません。同様に「私はこれが気に入らない」といった主観的な基準で正しさを判断している限り、科学的な「研究」はできません。生物学におけるルイセンコ学派がかつてスターリンの政治力を背景に(教育による後天的な獲得形質も遺伝させられる、と言う考え方は社会主義にとって都合が良かったので)ソビエトを支配し、ソビエトの分子生物学研究に控えめに言っても10年以上の空白を作ったことは有名です。

 もっとも、「正誤を判断する方法」は結局のところ自分で選び取るものであり、そうした主観性はまったくゼロにはできないものなのですが。

 学部は基本的には勉強をするところであり、大学院は基本的には研究をするところです。学部でも卒業論文を書くためにある程度の「研究」はしますが、自分のオリジナルな研究をまとめる学生は多くはないのが実情です。同様に大学院でもある程度の「勉強」の機会は提供しますが、大学院では論文を書くだけで手一杯になるので、入学前の基礎は非常に重要です。私はよく言います。「大学院における最大の悲劇は、入れないことではなく、入ったが出られないことだ」と。

 ある種の教育機関は、大学や大学院に何人送り込むかが次の学生の集まり具合に影響することを意識しすぎて、「言われたことをやる」ことしか知らず、まったく研究の心構えが出来ていない学生を大学院に押し込もうとします。結局のところ、そうした学生は教育機関に授業料を支払い、大学院に授業料と人生を支払って、わずかなものしか得ないで大学を去ることになります。そして、多くの大学院は定数を充足する絶対的な必要に迫られており、卒業の見込みに関わらず志願者を受け入れることがあります。自分の人生は、自分で守ってください。

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