流通経済論

出典: Hnami.net

2008年12月20日 (土) 16:31; Hnami (会話 | 投稿記録) による版

 かつて並河が担当していた講義のノートです。現在では古くなった内容もあります。

流通経済論
2003.3.31版

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第1節 課題の設定-よい流通とは




「よい流通」とは何だろうか。これがこの講義のテーマである。

流通とは?

     大ざっぱに言えば、経済における生産とは、労働、土地、天然資源、資本設備などの「生産要素」を使って、財やサービスを作り出す活動である。自動車が自動車部品から作られるように、財を作るための財(中間財や資本財)が途中にはさまるとしても、それらは元をたどれば、いま注目している期間の最初に社会にあった生産要素を使って作られている。
     形のないサービスと違って、形のある財は、生産されてから消費されるまでに運ばれたり、持ち主を何度も変えたり、商品の説明などのサービスの価格がその価格に付け加わったりする。生産と消費の間に行われるすべての活動を、ひとくくりにして流通と呼ぶ。
誰にとって?
     経済学者は、消費者の利益を重視する傾向がある。経営学者は、もちろん消費者を無視はしないが、(既存の)流通業者の存続を条件につけることが多い。
    もちろん、流通業者でないメーカーも、流通のありように大きな利害関心を持つ。
    政府の流通に関する政策は、歴史的に言って、流通業者の利害にかなりのウェイトを置いている。
どういう意味で?
     経済学者は、「パレート効率性」という特定の概念を「効率性」という言葉に割り当てて、これを最優先する傾向がある。
     流通業者が少なくとも存続できる程度の利益を上げる(流通業者の経営が安定する)という意味での流通の良さは「利益性」と呼ばれる。経済学の立場から言えば、競争が行われることによって必要にして十分な数の流通業者が市場に残り、「利益性」が結果的に満たされるのであって、これを「流通の良さ」の尺度とすることは好ましくない。
     流通業者が過不足のないサービスを消費者に(財といっしょに)提供することは、明らかに消費者にとって好ましいし、流通業者のプライドも満足させる。また、高級感をセールスポイントにするような財の供給者は、こうした流通を望む。こうした流通の「良さ」は、「有効性」と呼ばれる。有効性概念の問題点は、どの水準のサービスがちょうどよいかをどう決めたら良いか、という点にある。
     教科書的な経済学は、もちろん、すべての社会的正義を扱っているわけではない。例えば流通業者の商圏が広域化しすぎて、自動車でしか買い物が出来なくなれば、老人や身障者はどのような価格でであれ買い物の機会を奪われる。流通業者への一定のアクセシビリティをすべての国民に保証するために、公的な資源を投入することは、政治的に正しいことかもしれない。これが「公平性」概念である。
     新規参入の機会を保証して置くことは、その市場での価格水準を長期的には抑制する効果が見込まれる。しかしそのために、短期的には既存企業間の競争を促進するような、いくつかの市場行動を禁止する方が良いかもしれない。そのコストを社会が支払っても、なお新規参入の機会を保証することが社会にとって望ましい、と考えるのであれば、それは新たな流通の「良さ」を定義していることになる。これを「競争促進性」と呼ぶことにする。

製品差別化と流通の経済分析
     製品差別化による説明と、流通の経済分析による説明は、ひとつの問題を分析するふたつの方法となることが多い。
     ひとつの財を流通させる方法を選ぶことは、その財といっしょに提供される流通サービスの量を選ぶことにほかならない。流通サービスと財が抱合せ販売されていると考えれば、流通経路や流通方法を選ぶことは、財の品質や種類を選ぶことの一種だといえる。
     異なった財に異なった価格がついたとしても、なんら驚くに当たらない。ゆえにこの考え方からは、流通についての独自の経済分析をするよりも、製品差別化に関する分析をしたほうがよいということになる。
     いっぽう、製品差別化による説明を推し進めていけば、価格水準に関する経済分析はほとんど不可能になる。例えばアメリカの牛肉と日本の牛肉は多少異なっているから、その差異にどれだけプレミアムを払うかは日本の消費者が市場で決めることであり、その適正な水準を経済学者が勝手に論じることは無意味である。
     流通の経済分析を行うとすれば、従って、「同じ財に違った価格がついているのはなぜか」「この財はその性質を変えずに、もっと安く供給できないのか」といった視点が重要になるような場合を選ぶのが良い。異質な財を一度に扱うような分析は、製品差別化の問題として考えた方が建設的である。
     虚偽の広告や賞味期限表示などに対する公的規制も、流通の「よさ」についてのひとつの意見に基づくと考えてもよい。しかしこれらは、財の性質、財の種類(に関する情報提供)を規制するものと考えた方がわかりやすいと思われる。

 これらの立場、これらの尺度は、互いに矛盾することが十分に考えられる。経済学的な考え方で実際の政治的な決定をすべて律することは、一部の尺度での流通の状態を極端に悪化させてしまうかもしれない。しかしこの講義は経済学の講義であって、経済学に出来ることは何か、という観点から議論の焦点を選択してゆく。


パレート効率性

 近代経済学の文脈で「効率性」という言葉が使われたとき、それは普通パレート効率性のことを指している。この概念はどんなことを分析できるのだろうか。どんなことを分析できないのだろうか。

     パレート効率的な状態とは、「だれの目的関数も下げずに、少なくともひとりの目的関数を引き上げる手だてがない状態」を指す。
       この定義は、社会に参加する人々の間での所得分配について、ほとんど何も言っていないことに注意しよう。
     社会の目的関数(社会的厚生関数)として、よく需要曲線と供給曲線(=限界費用曲線)が囲む部分の面積が取られる。価格pの水平線を境に、上の三角形の面積を消費者余剰、下の三角形の面積を生産者余剰という。消費者余剰は、「もっと払ってもよかったのに価格pで手に入ったから得をした分」である。生産者余剰も同様の解釈が出来る。
     消費者余剰+生産者余剰を、社会的余剰と呼ぶ。社会的余剰は、社会的厚生関数としてよく使われる。つまり、社会的余剰が大きければ大きいほど、その経済は効率的な経済だ、と考えることが多い。このとき、もしこの経済に計画当局(Social
     Planner)あるいは「政府」がいれば、政府の目的関数は社会的余剰であって、政府は社会的余剰をなるべく大きくするように特定の取引の方法を禁止したり、補助金や税金で国民のいろいろな選択肢を割高にしたり割安にしたりする。 
    
パレート効率性と分配問題
     社会的余剰を最大にするはずの消費量が実現したとしても、その社会的余剰は生産者と流通業者が山分けにするかも知れないし、生産者や流通業者が(消費者からみれば)むだな活動をすることで浪費されてしまって、結局消費者の手に入らないかもしれない。
     法律や制度・習慣の効果を考えるために、その法律があった場合の均衡とない場合の均衡を比べてみることがよくある。どちらかがはっきりパレート効率的であることもあるが、その法律・制度に取って損をする人と得をする人が両方いるときは、パレート効率性の観点からは優劣が付かない。皮肉な言い方をすれば、我々が興味を持ちそうな問題の多くは、経済学上の効率性の観点から言えばはっきりした結論の出ない問題だ、ということになる。
     政府、小売店や卸の業界団体、あるいは消費者が「流通のあるべき姿」や「よりよい流通」について語ることは多いが、そこで問題にされることは、上記のパレート効率性で結論の出る範囲を明らかに越えていることが多い。

<考えてみよう>

 次の文章のうち、あなたが同意できるものはどれか。同意できるもの同士で、一方が正しければもう一方は正しくない、という組み合わせはないか。誰かの損が誰かの得になるような組み合わせはないか。
    (1)とにかく安く売るのが良い流通だ。
    (2)小売店や卸で働く者の暮らしが守れない流通は良い流通ではない。
    (3)至れり尽せりのサービスを提供して、お客様に満足を味わってもらうのが良い流通だ。
    (4)要らないおまけはサービスであれモノであれ、はずして価格を下げるのが良い流通だ。
    (5)中小小売店がやってゆけない価格競争は禁止すべきだ。
    (6)大規模小売店の活動は、中小小売店とは別に、特に制限すべきだ。
    (7)大規模小売店は巨大な寡占メーカーに対抗できる貴重な存在だ。大規模小売店どうしが競争すれば消費者の利益も損なわれない。
    (8)メーカー同士が激しく競争していれば、メーカーが自社製品の小売価格(の下限)を小売店に強制しても、消費者は特に困らない。高級品イメージを守るのも競争戦略のうちだ。
    (9)古い商品や粗悪品を置けば他店との競争に負けるのだから、小売店レベルでの価格競争が激しくなっても、品質上の問題を消費者が心配する必要はない。
    (10)売れ残りが出れば、結局そのコストは売れた分の価格に上乗せされて消費者が支払うことになる。ときどき品切れが出るくらい店頭在庫を薄くするのがちょうど良い。
    (11)駅前商店街の寂れることを防ぐために、税金を投入して市街整備や補助事業を行うことは仕方がない。
    (12)深夜に強盗が現れるわずかな可能性に対応するため、コンビニの店員を常時ふたりにすることは、消費者にムダな費用負担を強いることになる。
    (13)ほとんど特定メーカーの製品しか扱わない小売店が、メーカーごとにグループを作って互いに競争したほうが、すべての店で少しずつ売るより、販売努力やユーザーサービスの面で効率が良い。



第2節 限界費用、機会費用、レント

 限界費用や限界効用という概念は、ミクロ経済学では必ず出てくる。しかし計算練習をただ解くだけでは、それが現実のどのような局面に応用できるかイメージすることは難しい。現実への応用のために、この概念をおさらいすることから始めよう。

最大化行動

     経済学では、モデルに登場する独立した意思決定者(経済主体)は、なんらかの目的関数を持っていて、それを最大(または最小)にするよう行動していると考える。この意味で、経済合理的な行動ルールは、最大化行動または最小化行動である。
     例えば企業は、利潤を最大化するように財やサービスの生産量を決める。消費者は、なんらかの満足の尺度(効用関数)を持っていて、その値(効用)を最大化するように予算をいろいろな財やサービスに振り分ける。政府もまた、何らかの目的関数を持っていると考えられる。
     意志決定の問題には、目的関数(利潤、効用など)、行動(アルバイトを雇う、コーヒーを飲むなど)、結果(利潤がいくらになる、効用がいくらになる、など)の3つの要素がある。
     ひとりの行動だけを考える場合、行動の選択肢ごとに結果を比べて、目的関数を最大にするものを選べば良い。これは費用便益分析と呼ばれ、経済学のなかで、いちばん現実の問題に応用しやすいもののひとつである。
費用便益分析
     例 パソコンA、B、Cの3機種は、それぞれ20万円、30万円、40万円である。どれを買ったら良いか。
     いきなり「価格性能比」を振り回したり、手に入る限りもっとも高速なマシンに手を出したりするのは経済合理的な選択ではない。
     まず最も安いパソコンAと、次に安いパソコンBの性能の差をリストアップする。その差から得られる効用の増加分は、10万円の支出増加に引き合うものだろうか。もし引き合うなら、パソコンAを候補からはずし、パソコンBとCで同様に考えてゆけばよい。これが費用便益分析である。
       限界効用逓減 ある範囲を超えると、性能が良くてもそこから得られる利益は薄い。例えば最近パソコンの周辺機器をUSB(USB1.1)ケーブルで接続することが多いが、このケーブルの通信速度は比較的遅いので、高速な周辺機器を接続しても最高の性能が出せないことがある。
       貨幣の限界効用 貨幣そのものには使用価値はないと考えるのが普通だが、他の使途に使ったときの1円あたりの限界効用として「貨幣の限界効用」を考えたほうが便利なこともある。支出が大きくなると、他の使い道から予算を引き抜かなければならない。とすれば、その特定の支出予算を他の用途に回した場合の機会効用は、逆に逓増してくるはずである。
       これらのことから、そのうち「これ以上予算を使うことは合理的でない」という選択肢が見つかるはずである。


 費用便益分析は、たいていの場合、A、B、Cのうちどれを選ぶか、というような「離散的な」選択肢を扱い、隣り合った選択肢どうしを比べていく。ミクロ経済学では、例えばどんな半端な生産量でも選べるように、「連続的に」変化する変数の値を決定する問題を中心に扱った。連続的な変数では「隣の」選択肢と言うものはないが、その代わりにミクロ経済学では微分を使って、変数が「ほんの少し」変化したときのことを考えた。
 実際の応用では、例えば需要関数の形が特定できるほどのデータが揃うことはほとんどないが、ミクロ経済学で学んだ限界概念と、費用便益分析に出てくる限界概念が基本的に同じものであることは理解して欲しい。

 次に取り上げるのは機会費用である。機会費用という概念は、ミクロ経済学の計算をする上ではほとんど使うことがないが、経済学らしい考え方を身につけるためには不可欠な発想である。

例1 問屋から小売店がラーメンを100個、1個60円で仕入れた。家賃や従業員の給料(営業費)に、2000円(1個あたり20円)かかる。ところが隣のスーパーでは、同じラーメンを1個78円で売っている。消費者は価格が安いほうの店で買う。この小売店は小さいので、スーパーと同じ価格を付ければ、仕入れたラーメンは売り切れるはずだ。

非経済学的な考え方

     とにかく80円の費用がかかっているのだから、80円で売らなければならない。結果的に1個も売れないとしてもかまわない。
経済合理的な考え方(機会費用の考え方)
     80円の費用はすでに払ってしまったので、計算には入れない。小売店の立場は、ただで手にいれた100個のラーメンを、いくらで売ればいちばん儲かるか、という問題を考えているのと同じである。78円以下なら100個売れ、その価格を超えると1個も売れないのだから、78円を付けるべきだ。結果的に1個あたり2円損することになるが、それ以上どうすることもできない。
例2 例1と違って、営業費用2000円のうち500円はアルバイト店員の給料で、これから雇うところである。アルバイトを雇わないと、小売店の営業時間が短くなるので、スーパーと同じ価格かそれ以下でもラーメンは95個しか売れない。話を簡単にするために、売れ残りのラーメンは賞味期限が切れて店頭には出せなくなり、店主が自分で食べることもできないとする。
     明らかに不合理な選択を除くと、アルバイトを雇う・雇わないと言うふたつの選択がある 価格はどちらの場合も精いっぱいの78円をつけるとする
    (1) アルバイトを雇う 売上78×100=7800円 追加の費用500円 差し引き7300円
    (2) アルバイトを雇わない 売上78×95=7410円 追加の費用ゼロ
     (1)と(2)では小売店の利潤(=売上-費用)に110円の差がある。売れ残りは出てもアルバイトを雇わないほうが小売店の利益になる。
     このとき、①は(2)に比べて110円の機会費用がかかっているという。利潤を最大化する(2)の機会費用はゼロである。
     すでに支払われている仕入価格6000円と営業費用1500円を差し引くと、(1)は200円の赤字、(2)は90円の赤字である。
      6000+1500円を考えに入れても入れなくても(1)と(2)の差は変わらない。
     機会費用がゼロだということは、他にそれよりよい機会がなかったということである。利潤を稼ぐ機会と機会(ここでは(1)と(2))を比べるから機会費用と言うのである。取り返しの付かない費用を加えて黒字になるかどうかは、合理的に行動するからといって、保証されているわけではない。
     意志決定の時点ですでに支払われていて、取り返しの付かない費用(この例では7500円)を、サンクコスト(Sunk
     Cost=埋没費用)という。 
    
例3 例2と同じだが、今度は小売店が仕入れ数量を選べる。営業費もまだ支払われていないので、最初から店を開かないこともできる。
    (1) アルバイトを雇うとき 
      A. 78円以下の価格を付ければ100個まで売れる
      B. それを超えるとひとつも売れない
      100個仕入れたときの利潤 (78-60)×100-2000=-200円
    (2) アルバイトを雇わないとき
      A. 78円以下の価格を付ければ95個まで売れる
      B. それを超えるとひとつも売れない
      95個仕入れたときの利潤 (78-60)×95-1500=210円
        例2とは違って、仕入量を95個にとどめることが出来るから、今度は黒字になる。
    (3) 店を開かないとき
      「利潤」は0円
       アルバイトを雇うくらいなら、店を閉めたほうがよいことがわかる。
       何もしなかったらどうなるか、ということが機会費用の計算には重要である。それもまたひとつの「機会」である。
       何もしないとどうなるか? 利潤はゼロとは限らない。店主が他に働きに行ったり、店を他の人に貸したり出来るかも知れない。逆に店のローンが残っているかも知れない。これは例1~例3から分かるように、どの時点での意志決定を考えるかによって異なる。
例4 例3と同じだが、この小売店はスーパーが開店する前からあって、スーパーがなかった頃は1個80円でラーメンを売っていた。周囲の小売店も80円で売っていた。スーパー開店後、小売店はどういう価格を付けるべきか。
     この場合の意志決定は例3と同じで、結論も同じである。「80円で売れていた物が78円でしか売れなくなったから2円の損」という考え方は、事実として間違いではないが、機会費用の計算では無視すべき費用が入っている。
     80円の価格をつけてもひとつも売れないのだから、100個仕入れてアルバイトを雇った場合、60×100+2000+210=8210円の機会費用を被る。(210円の得をする機会があるのに、8000円の損をする) ひとつも仕入をしないでも、店を開けておくだけで1500+210=1710円の機会費用を被ることになる。
     同じような選択を繰り返し行うようなケースは多い。このとき、新しい選択肢が出来た(今まであった選択肢がなくなった)ときに、もう最善でなくなってしまった選択肢を取り続けることは、機会費用を生じさせる。
     機会費用の考え方には、今までこれだけもらってきたのだから、という既得権の考え方や、常に状況に気を配ることの緊張感や疲労感の考慮はまったく入っていないことがわかる。
例5 例3と同じだが、店主は資金を持っていない。銀行は1日利率3%で資金を貸すと言っている。借りたほうがよいか。
     例3でみたように、正の利潤を上げるのは、アルバイトを雇わないときだけだった。このとき60×95+1500=7200円の資金を使って、210円の利潤が出た。210÷7200=0.029 つまり2.9%。資金を借りるくらいなら店をたたんだほうがよい。
     資金を運用する人間も、利回りのもっとも良いように、つまり資金運用の機会費用をゼロにするように投資先を捜している。もし自分の資金の利回りより高い利潤率をあげている企業があれば、その企業の株を買うか、でなければまったく同じ企業を作って同じ事業をやり、少し低い価格を付けて客を奪ってしまえば良い。従って、完全競争で参入や退出が自由であれば、資金の利息を払ってしまうと、利潤の残り(超過利潤)はゼロになっているはずである。
     その結果、(1) どの産業に投資しても、資金につく利子率は同じになり、(2) 逆にどの企業も一定の利子率でいくらでも資金が借りられるはずである。これを資本市場の完全性という。
経済学における「利潤」概念と「レント」
     市場メカニズムが理想的に働いている場合、資金の利息を越えた利潤があるとすれば、それは創業者利潤である。つまり、新しい技術や新しい市場を見つけたものが、競争によって利潤がゼロになってしまうまで、一時的に得る利潤のことである。
     ふだん我々が「利潤」と呼ぶものは、近代経済学では創業者利潤+資金への利子+経営者への賃金 と考える。
     経営者の才能、有利な立地といったものは、同じ物を金銭で手にいれようとしても不可能だとも思える。これら再生産できないものに払う報酬を、準地代(quasi-rent)、あるいはレントと呼ぶ。これも普通の人々が考える「利潤」の中に入っているだろう。
     しかし準地代の考え方を振り回しすぎると、現状(例えば高い利潤率、閉鎖的な取引関係)を無条件に肯定してしまうことになる。もし準地代を稼いでいるようなものがあれば、企業が参入してきて、それの代わりになるものを一生懸命に作ろうとする、というのが近代経済学の考え方である。近代経済学者は、準地代の部分が小さいと思えば無視するし、大きいと思えばその内容を調べて、それを再生産できるもので置き換える方法を見つけようとする。
     自分の資金で事業をしている場合も、もし他に有利な投資があれば、自分は働きに出て、資金を他人に貸して高い利息を稼いだほうが得である。自分で事業をしている人は、自分自身から資金を借りて、その利息を払っていると考える。これを帰属利子という。持ち家の家賃にも似たようなことがいえる。

     中小小売店で「どうにか経営を維持している」ものは、自分の店舗への帰属家賃や、家族従業員の機会賃金を払ってしまうと赤字になると思われるものが多い。経済合理性を第一に考えれば、こうした店舗はもっと有利な事業のために土地を明け渡して、地代収入を得ながら労働力を別の方面に活用すべきである、ということになろう。もちろん、第1節で述べたように、この考え方は流通に対する唯一の考え方ではない。
     また、こうした労働力を労働市場に再投入しても高い市場価格がつくだろうか、という疑問は、経済学の問題として考える余地がある。


<考えてみよう>

 安価な輸入品との競争に敗れた地場産業(例えば食器、いくつかの野菜、繊維製品)の産地では、今まで採算が取れていた企業の赤字化・退出が相次いでいる。
 このことが市場メカニズムが教科書通りに働いた結果だとすると、どのような良いことがあると期待されるか。それは現実とどのように違っているか。
 市場メカニズムのこのような働きは、制限すべきだろうか。制限すべきだとすれば、どう制限すればよいか。
 明らかに不幸な事態が生じているのに、市場メカニズムを基本的に堅持することは、世界経済に関する議論の前提になっているように思われる。それはなぜだろうか。
 このような動き(今まで採算が取れていた企業の赤字化・退出)が1990年代以降に急に生じたのはなぜだろうか。

第3節 情報の不完全性と非対称性



理想的な状態での市場メカニズム

     標準的な近代経済学では、最終的な生産者と最終的な消費者の間での1回限りの取引を扱うための、簡単な流通システムがあると仮定している。このシステムの働きを、市場メカニズムと呼ぶ。
     市場メカニズムでは、取引の開始前に、需要と供給が一致する価格が探索されて、均衡価格が決まり、その価格ですべての取引が行われる。
     市場メカニズムが理想的に働く前提として、完全情報市場の完全性、取引費用がゼロであることが必要である。
       完全情報とは、取引に参加する人間が無料で、取引に関係する情報をすべて手に入れられることを言う。例えば買い物に出る前から、主婦の頭には今日の商店街の特売地図が完全に出来上がっていなければならない。
       市場の完全性とは、供給可能なすべての財やサービス、そしてその組み合わせについて、取引の機会(市場)が存在することである。
       取引費用(輸送費用や取引手数料)がゼロであれば、市場に参加した売り手や買い手は、ある市場価格の下でのそれぞれの需要量・供給量でのみ区別される。
     市場メカニズムが教科書通りに働くとき、社会にある生産要素(広い意味での資源)は、ある意味で最も効率的に無駄なく使われることが知られている。(厚生経済学の第1定理)「ある意味」の内容を厳密に理解するためには、埼玉大学で講義されているミクロ経済学のレベルを超えた、数学的に洗練されたミクロ経済学を学習する必要がある。概念的な説明は、埼玉大学のミクロ経済学の講義にも登場する。
     しかし実際には、もちろんそうではない。
市場の失敗
     市場メカニズムは、いろいろな理由で、現実の世界では完全には働かない。それらの理由はひとくくりにして「市場の失敗」と呼ばれてきた。これらについては、流通経済論ではほとんど触れる機会がないが、簡単に触れておこう。
    公害・外部効果
       公害を出しても安上がりに財を作れる技術があるとき、その財は公害企業と消費者の間で取り引きされるので、取引に参加しない公害病患者の迷惑は価格には現れない。例えば政府が介入して、公害の損失をマイナスの価格として企業に課した場合と比べると、社会全体として公害製品が過大に生産され、人々の不効用(マイナスの満足)もより大きくなっている。これは最も効率的な生産とは言えない。
       逆に、周囲に取ってプラスになるが、金を払わなくてもその恩恵にあずかれる、というケースもある。例えば日本に来た外国人旅行者は、日本の税金を払わなくても、日本の治安の良さを享受できる。こうしたプラスの外部効果を外部経済、公害のようなマイナスの外部効果を外部不経済という。
       外部効果については、環境政策や公共経済学の講義で扱われることになるだろう。
    独占
       もうひとつの重要なケースは、独占である。生産者同士が協定を結んで生産量を小さく、価格を高くすれば、生産者が大きな利潤を得る代わりに、社会全体としては(ある尺度で)非効率になる。
       技術とその国の市場規模の関係で、平均費用がいちばん安くなる生産量が国全体の需要量を越えてしまうケースを自然独占という。こういうときは、競争に任せて置くとひとつの民間企業だけが生き残って、独占価格を付けられる状況が自然に出来てしまうので、政府がこの産業を独占してしまうことが多い。市内電話、郵便、水道などがこれにあたる。
       民間企業でも料金決定に政府の許可が必要な産業もあるが、これらも自然独占に近い産業が多い。電気、ガス、長距離電話、鉄道などが挙げられよう。
       独占は流通経済論のメインテーマではないけれども、メーカーによる価格維持は講義の中に登場することがある。社会環境設計学科の経済法では独占・寡占問題が大きく取り上げられるはずである。

不確実性・情報の不完全性
    「市場の失敗」のひとつに、「不確実性」や「情報の不完全性」と呼ばれるケースがあることは、早くから知られていた。消費者は自分の買う財についてすべてを知っているわけではないし、目で見ただけでは品質を見抜けないこともある。品質が分からないとき、消費者は流通業者の意見を聞くかも知れない。しかし流通業者は特定の企業から特に厚いマージンをもらっていて、その企業の製品ばかりを奬めるかも知れない。この問題をもう少し掘り下げてみよう。
    「情報が完全でない取引」といっても、細かくみると少なくとも3種類のケースがあるといえる。例えば、皆さんがスキー旅行に参加するとしよう。

    [ケース1] たまたま今年は天候が暖かくて、スキー場に雪がないかも知れない。また、偶然の自動車事故などでスキーが中止になるかも知れない。
       取引に参加している人間には操作できないことがらの不確実性を、「環境的不確実性」という。環境的不確実性は、その起こる確率がわかれば、条件つき契約を使って、平均的に採算が取れるように処理できる。雪がなければあなたは旅行をキャンセルできる。旅行業者は暖冬の年は赤字でも、ふだんの冬にその分を取り返せるかも知れない。農産物の流通などでは、こうした環境的不確実性もある程度処理しなければならない。
    [ケース2] 旅館やバスの設備は、旅行業者のパンフレットだけでは分からない。ひょっとしたらひどい旅館かも知れない。
       これは「隠された情報」のケースである。「いちげんさん(初めてこの土地に来る客)」をカモにする旅館があるかもしれない。雑誌の情報で判断することもできるが、雑誌の記者が旅館からリベートをもらって、旅館に有利なように記事を書いているかも知れない。
       こうした場合、いちど行ったことのある旅館は、同じ宿賃の別のホテルより安心できる。継続的取引の利益があることになる。価格情報だけで取引を成立させる教科書的な市場メカニズムを頭に描いて行動するより、なじみの旅館を作ったほうが消費者にとって得である。
       一定の条件のもとでは、広告している旅館は、していない旅館より設備がよいと考えられる。設備が悪い旅館に取っては、広告して集めた客も来年は来てくれないので、同じ広告費用に対して利益が小さいからである。広告を打つことが、自分の設備がよいことの「シグナル」になるのである。
    [ケース3] 旅行業者が約束した旅館は一杯だとか何とか言って、もっと安い旅館を割り当てるかも知れない。
       ケース2との違いは、旅館の設備は(限られた時間のあいだは)一定であるのに対し、旅行業者は旅館を選べる、という点にある。これは取引相手の「隠された行動」が問題になるケースである。
       ケース2と同じように、ある条件のもとでは継続的取引の利益や広告のシグナル効果が認められる。
       ケース3の場合、旅館と同様に旅行業者の長期的な信用も考えに入れるべきだろう。旅館に対する不満は旅行業者の評判も落とすから、旅行業者は今年いくらかの宿賃を浮かせるのが得か、来年以降その客をつなぎ止めて置くのが得かを考えることになる。その客が従来からの上得意であれば、来年も使ってくれる可能性は高いから、いい宿を割り当てることの利益は大きくなる。
     ケース2、ケース3に相当するような「情報の非対称性」の理論分析が1980年代に急速に進み、情報の経済学、さらにはそれが幅を広げた新産業組織論と呼ばれる分野を発展させた。

市場と企業組織
     情報に不完全性があるときは、ただ価格を申し出るのではなく、数量割引や返品といった条件を付けて「契約」を結んだほうが取引がうまく行くかも知れない。あるいは、部品を作っている企業や製品を売る卸・小売店を合併(垂直統合)したほうがよいかも知れない。
     もちろん良いことばかりではなく、合併することによって責任の所在が不明確になり、「大企業病」とか「親方日の丸」とかいった言葉に代表される、新たな非効率も生じるであろう。
     こうした市場と企業組織の比較も、新産業組織論の重要なテーマである。
     流通分野でも、特定のメーカーと小売店の結びつき(流通系列化)があるとされている。メーカーは自社製品を売り込むために行うのだが、小売店がメーカーの援助に頼って期待したほど売上を伸ばさない、というケースも考えられる。

市場の完全性が満たされないとき
     市場の完全性が満たされなければ、欠落した市場で扱われる財の代替財や補完財の市場に歪みが生じる。例えば輸入米の取引が禁止された状態で、日本において国産米の売り手と買い手が教科書通りに理想的に行動したとしたら、そこで成立する価格は輸入が解禁された場合より高め、取引量は少なめになるであろう。

市場の創出と独占的競争
     他社と同じ物を作っている限り、その企業は零細多数の売り手のひとつでしかない。安定した需要を確保するために、企業は他社製品との違いを際立たせようとすることが多い。これを製品差別化という。これによって新しい財が生まれ、新しい市場が創出され、消費者の望みはより木目細かく満たされる。しかし言い換えれば、企業は新たな市場の独占企業として振る舞えるわけだから、消費者が価格競争による利益を受けられなくなる面もある。

取引費用の存在
     消費者が小売店に移動するにも時間的・金銭的なコストかかかるから、消費者は安いからといっていつも遠方の店に行こうとはしないであろう。極端な場合、最も近い小売店ひとつしか購入先として考えに入れないかもしれない。このような極端なケースを地域独占と呼ぶ。このような場合、その小売店は価格競争の相手がいないことになる。
     通信販売を利用すれば遠隔地の消費者もほとんど同じ費用で取引に参加できるが、その費用そのものが高ければ、安い商品の注文を消費者はためらうであろう。例えばインターネット通販で安いと評判の店があったとしても、プロバイダと契約する費用を差し引くと、反って高くつくかもしれない。

 このように、市場メカニズムは様々な理由で、実際には教科書通りに働かない。その理論と現実の隙間について、これから考えてゆくことになる。


<考えてみよう>

 売り手の言い分は必ずしも買い手に伝わらない。買い手の望みを売り手がいつも理解しているわけでもない。
 就職・求職活動とは、労働力商品としての皆さんを売ることである。企業で新入社員やアルバイトを選考した経験のある受講者もいるかもしれない。
 求職者は企業のどんなことがわからない(企業のどんなことを知らずに受けに来る)か。あるいは、求人側は応募者のどんな点がわからない(応募者のどんな点をわかってくれない)か。自分の経験や興味に沿ってひとつ例をあげなさい。
 また、そういうことが起こるのはなぜだと思うか。考えを述べなさい。

<A name=04>第4節 ナッシュ均衡とゲームの理論</A>

ゲーム論的状況

     売り手と買い手のように、ふたり以上の登場人物が、それぞれ自分の目的関数を持って行動を決めるときは、費用便益分析とは違った新しい問題が現れる。相手の行動によって自分の行動の結果が変わってくるのである。このような状況をゲーム論的状況といい、こうした状況を分析するのがゲームの理論である。

    例1 (囚人のジレンマ)
     2人組の犯罪者が捕まった。2人は別々に取調べを受けている。2人の起こした事件の中には証拠のそろわないものがあり、犯人の自供が取れるかどうかが警察に取って事件解決のカギになっている。
    • 2人とも自供しないとき 警察は証拠のそろう分の事件についてだけ2人を告発する。 2人とも懲役3年の判決を受ける。
    • 1人だけが自供したとき 自供したほうは反省の色があると言うことで、懲役1年に減刑される。自供しなかったほうは悪質な犯罪者という印象を裁判官に与え、法律の許す限り最大の罰を適用され、懲役10年の判決を受ける。
    • 2人とも自供したとき すべての証拠がそろい、2人とも懲役5年の判決を受ける。
     それぞれの犯罪者は、自供したほうが得か、自供しないほうが得か。

     お互いに、相手の行動がどちらであろうと、自供したほうが得である。しかし共謀の機会があり、相手を信じることが(あるいは逆に、相手に約束することが)できれば、2人で自供しないことが懲役年数の合計をいちばん少なくする。

    例2 (雨降りの講義)
     男子学生と女子学生が、いつも顔を合わせる講義がある。ところが講義は難しくて退屈で、おまけに今日は雨が降っている。どちらも、お互いの顔が見られれば退屈な講義もバラ色になるが、相手が来ないのなら家で寝ていたほうが効用は高い。
     ふたりは講義に出るべきか、出ないべきか。

    例3 (コイン投げゲーム)
     コインを投げて、表か裏かを当てるゲームを映画で見かける。コインを投げるかわりに、表か裏かを選んでテーブルに置くゲームを考えよう。当てる側が「表」と言えば置く側は当然裏を向けて置くし、逆に置く側が裏を出すと分かっていれば、当てる側は「裏」と言い直すだろう。

     こうした、利害がお互いの行動に依存する、ふたり以上の意志決定の問題を扱う理論を、ゲームの理論という。目的関数と選択肢を持ったそれぞれの人間(べつに企業でも団体でもよいのだが)を、ゲームの理論ではプレイヤーと呼ぶ。
     ゲームの「ルール」には、プレイヤー、選択肢、選択の結果(目的関数の値)を最低限書き込まなければならない。近代経済学者は、このゲームのルールをモデルと呼ぶ。モデルをつくり、次に述べる「均衡」を調べることによって、経済の仕組みをうまく説明できると近代経済学者は考えている。

ナッシュ均衡
     お互いに、相手が行動を変えなければ、自分だけ行動を変えてそれ以上得をすることが出来ないとき、その行動の組み合わせはナッシュ均衡(あるいは単に均衡)であるという。
     プレイヤー1が行動Aを取り、プレイヤー2が行動Bを取ることを、(A,B)と書き表すことにする。
     例1では、(自白する,自白する)が唯一の均衡である。(自白しない,自白しない)では、相手が自白しないとすると自分だけ自白したほうが得なので、均衡にならない。
     例2では、(講義に出る,講義に出る)と(講義に出ない,講義に出ない)のふたつの均衡がある。一般に、ひとつのゲームに複数、あるいは無数の均衡が存在することは珍しくない。
     例3の場合、均衡は存在しないように思える。たしかに、「表」と「裏」のどちらか一方だけしか選べなければ、均衡はない。このことを指して、例3のゲームには純戦略均衡がないという。
    しかし、ふたつの純戦略をある確率で混ぜ合わせて、「50%の確率で表、50%の確率で裏」などという混合戦略を選べるとすれば、均衡(混合戦略均衡)はある。純戦略均衡は、ある行動を100%取る、という特別な混合戦略均衡だと考えられる。
     プレイヤーの数が無限に多いゲームや、プレイヤーの行動が無限種類あるゲームを除くと、どのゲームにも少なくともひとつの混合戦略均衡があることが証明されている。
ゲームの手番・情報
     上の例では、すべてのプレイヤーが同時に、一度にすべての行動を決めた。 しかし、どちらかが先に行動を決めたり、少しずつ行動を決めたり、同じゲームを繰り返したりするようなゲームも考えられる。
     また、相手の行動や、偶然に起こった事柄がプレイヤーに分からない(あるいは不完全に分かる)ゲームも考えられる。これらは不完全情報ゲームと呼ばれる。例1~例3はいずれも、同時に下される相手の行動が分からないので、不完全情報ゲームである。この場合、全員が同じ行動を取る「対称均衡」についてだけ考える、と勝手に決めてしまうこともあるし、プレイヤーが他人の行動に付いてある予想を持っている、と考えることもある。
     実際の取引慣行をモデル化するときには、こうしたちょっとしたルールの差で結論がずいぶん違ってくることに注意しなければならない。


<考えてみよう>

 経済理論には、現実を説明する「説明力」と、将来を予測する「予測力」の両方が要求される。何でも説明できる(Aでもありうるし、Bでもありうることを説明できる)理論にはたいてい予測力がないし、ピンポイントの予測を与える(結果はAしかないと予測する)理論にはたいてい説明力がない。
 あなたが経済学に期待するイメージと、(ゲーム理論を使わない普通の)ミクロ経済学、そしてゲーム理論に基づく経済問題のとらえ方を比べ、コメントしなさい。説明力は高いが予測力の低いゲーム理論は、現実に役立てることができるのだろうか。

<A name=05>第5節 物価問題という視点</A>

     物価抑制政策は、多くの国で長い歴史を持つ。例えば江戸時代、享保年間に活躍した江戸南町奉行・大岡忠相は、生活必需品へのこの種の政策を盛んに行って、庶民に人気があった。大岡忠相の実際の裁判記録はほとんど残っておらず、いわゆる大岡裁きのほとんどは古典からの借り物や創作だと言われるが、それだけ庶民に大岡忠相の人気が高かった証拠だとも言える。
     物価は流通段階の要因だけで決まるものではないが、物価抑制を目的とした流通段階への政策介入は盛んに行われる。この節では現実問題を捉える手始めに、こうしたトピックスを集めることにした。

流通と独占
     1973年のオイル・ショック(アラブ諸国を中心とする石油輸出国の原油値上げ)により、日本は終戦直後以来最悪のインフレに襲われた。日本の消費者は直接・間接に石油を原料とする多くの財について、供給への不安と先高観を持った。
     このとき一部の商社が、品薄感の著しい生活必需品であったトイレット・ペーパーの在庫を放出しようとせず、値上がりを待っていることが発覚した。当時、この行動は「買い占め・売り惜しみ」と呼ばれて世論の指弾を浴びた。
     流通経路の中間に独占的な流通業者が居ると、その独占者は自らの買い値を限界費用として独占利潤を獲得しようと図るので、メーカーだけが独占利潤をあげるケースよりもさらに価格が釣り上がり、さらに取引量が減少することも理論的には考えられる。これを継起的独占という。
     物価政策の一環として、こうした独占的枠組みを壊すために競争者が導入されたり、競争の場が提供されたりすることがある。公設市場、中央卸売市場などは、米騒動に象徴されるような大正年間のインフレに対し、当時の政府が創設したものである。
     当時、日本の都市部では「御用聞き」「掛け売り」「配達」が典型的な食料品の取引形態であった。これは価格比較の機会を消費者に与えず、価格交渉を先に延ばすことで消費者を価格に鈍感にさせ、配達サービスという価格の比較しにくいサービスを付加して価格を比較困難にした。この状況のもとでは、商人に価格釣り上げの誘因が大きく、政府も商人に抜き難い不信感を持っていた。1917年には、台風の直後に物価が一斉に釣り上げられる事件が東京で起こり、政府は「奸商取締令」を発してこのような「不正の利」への取締を行った。
     政府は中間商人の排除と指標価格の公表のために公設小売市場や中央卸売市場の整備を推進したが、ときに政治家をも巻き込んだ小売商の反対運動に直面した。しかしいったん導入されると、取引量としてはわずかなシェアしかない公設市場の価格は、市中価格の相場に大きな影響力を持ったことが大阪の事例で知られている。(石原武政「公設小売市場の形成と展開」p.34-37)
       しかしもう一方の柱であった生産者直売の推進は、生産者が販売のノウハウを持たなかったために、結局後退を余儀なくされた。

     今日、もし小売店が価格の吊り上げを図ったとしたら、何が起こるだろう? 今日では交通機関が発達している。消費者は新聞チラシなどで、いろいろな小売店の価格を知ることができる。もし移動の難しい(大震災の直後などの)消費者に高い価格を提示する小売商がいたら、すぐにマスコミが取材にやってきて、小売商は社会的な指弾を浴びることになるだろう。もちろんこの小売商は、経済学的には合理的な行動をしているが、その他の観点から批判されるべきことをしているのである。
     確かに独占的な地位を持つ人物にとって、社会的に好ましくない事態を引き起こす誘因はいろいろある。しかしそんなことは、通信手段や物流手段が発達した今日ではまれな条件の揃ったときしか起こらない。我々は現代の日常的な問題を、別の手段で解かなければならない。


消費者は賢くなったか?
     消費者が価格の比較に時間や物的な資源を使えば使うほど、価格を抑制するのには役立つだろう。最近「価格破壊」などのキーワードがマスコミをにぎわせ、実際に低価格の外国製品が流入したので、消費者は価格に敏感になり、価格比較を意識して行うようになったかもしれない。地域的に限られており調査時点も離れていない問題はあるが、消費者の意識の変化をうかがわせるアンケート調査も発表されている。(宮沢健一編「価格革命と流通革新」p.31-33)


資源配分手段としての市場メカニズム
     市場メカニズムは、その価格を払う用意があるかどうかで買い手を選別し、需要料と供給量を一致させる。限りある資源を配分する手段としては、この他に、割り当て(配給)、抽選、行列(先着順)といったものがある。
     ある状況では、売り手が一定以上の利潤を得ないことが、経済学とは別の社会的・道義的根拠から、正義とみなされる。例えば、阪神・淡路大震災の被災地域における生活必需品の販売で、被災前の価格を急に値上げしたりすれば、この種の批判を浴びるであろう。こうした場合に、上記のような非市場的な資源配分が多用される。
     非市場的な資源配分を行った場合、買い手による再販売が、資源配分を歪ませる可能性がある。例えば以前摘発されたあるダフ屋は、時給の低い労働者を雇ってチケット売り出しの行列に並ばせ、再販売のためのチケットを手に入れていた。こうした行動を阻止する手段がないときは、もっと歪みの少ない配分方法を模索する価値がある。
     実勢価格とかけ離れた上限価格規制を敷いた場合も、闇市場の成立を招き、政策意図が達せられないことが十分に予想される。
     こうした上限価格規制や配給制度は、すべての国民が最低限の必要を満たすことが望ましいような、特定の生活必需品について行われることが多い。しかし国民が再販売を行ったり、あるいはそれを防ぐために貨幣を給付する形で生活水準の保障を行ったりすれば、その収入は何に使われるかわからない。これは一種のトレードオフである。特定の必需品に援助を限るほど政策の趣旨は徹底されるが、制度の潜在的な歪みもまた大きくなる。

全国一律価格
     書籍・新聞などある種の財は、全国一律価格で国民に届けられることに社会的意義がある、とする考え方がある。
     しかし、これらの財を消費者に届けるための費用は、明らかに地域により異なっている。流通機構がこの差をどう吸収するかによって、別の歪みが生じてくる。
       例えば書籍を返品するための費用は、東京周辺を除いては実費を基礎として書店に請求される。これは東京周辺の書店の費用条件を緩くし、地方書店のそれを厳しくする。また、普段取引のない出版社の書籍を注文処理する場合、地方の書店には長距離電話代など一定の取引費用がかかるが、これを補償する制度はない。これらは、地方書店の品揃えを狭くし、注文にも応じにくくするように働くのではないだろうか。
       以前は、東京から遠い地方では、全国紙の朝刊には前夜のナイターの結果は掲載されなかった。現在は、全国に印刷センターを配置することによって、配送時刻ぎりぎりまで追加・修正されたニュースを全国の家庭に届けることができるようになった。全国紙にとって、こうしたサービスの向上は、地方紙との競争上きわめて重要であるが、少数の読者のためのこうした設備の負担は、都市住民も含めた読者全体が負っていることになる。
     価格を全国一律に揃えることは、市場メカニズムにある干渉を加えることである。非経済学的な観点からこれが必要であるという政治的なコンセンサスが得られた場合、経済学の立場からそれ以上異を唱える筋合いはないが、干渉が経済に与える歪みという犠牲を正しく評価した上で意思決定するのでなければ、単なる既得権の擁護となるかもしれない。


<考えてみよう>

 探し回って他店より安いものを見つけた(あるいは、探したが見つからなかった)自分や知人の経験について述べなさい。なぜあなたや知人は価格を比較しよう(安いものを探そう)と思ったのだろう。高いものだから? 価格を比較しやすいから? 探すついでがあったから? 店舗が近くに集中しているから? それとも、季節ごとに安売り品が良く出るタイプの商品だから?


<A name=06>第6節 中小小売店保護の視点(1)歴史</A>

     流通の規制緩和、とくに大規模店舗規制法を巡る動きは近年たびたび新聞やテレビで取り上げられた。しかしそこで行われていた議論は、みなさんの持っている感覚とマッチしただろうか。
     小売業に限らず、大企業を規制することにはついつい拍手を送ってしまう、という人は多いように思える。そういう人たちに取っては、最近の規制緩和は「大小売企業の巻き返し」あるいは「アメリカの横暴」にしか見えないかも知れない。
     ここでは大店法を巡る議論を冷静に、過不足なく理解してもらうために、「独占禁止政策」についての話から始めることにする。
独禁法
     アメリカでは1890年に、世界最初の独占禁止法といわれるシャーマン反トラスト法が制定された。その後クレイトン法ロビンソン=パットマン法、連邦取引委員会法などが付け加わって、全体としてひとつの体系を作っている。
     そのころのアメリカには、スタンダード・オイル、USスチール、アメリカン・タバコなど、ひとつの産業の生産量のほとんどを生産する巨大企業がいくつもあって、自由に価格とそれに見合った生産量を決めることが出来た。これらの多くは、生産技術上ひとつの企業が生産したほうが安くつく自然独占ではなくて、利潤を大きくするために、独立してやってゆける企業を人為的にひとつにまとめたトラストであった。強力な独占禁止政策によって、これらの巨大企業は分割され、それぞれの消費者を巡ってふたたび競争を強いられることになった。
    •  このあたりの事情については、山下正明先生および伊藤孝先生の講義を受講するとよい。
     アメリカは経済的にも地理的にも巨大なので、自然独占の起こる余地は少なかった。アメリカは「競争によって高価格・低品質が淘汰される」という信念に従って、競争を阻害する限りでの企業の人為的な巨大化を排除したのである。同様に、独立した企業同士が価格や生産量を協定するカルテルも規制された。これはその企業が巨大であるかどうかを問わない。
ロビンソン・パットマン法
     アメリカでも、大規模な本部仕入で数量割引を獲得するチェーンストアに対する中小小売業者の反対運動があり、1920年代にピークを迎えたが、反トラスト法はその運動に冷水を浴びせることがあった。反トラスト法の考え方からいえば、中小企業と言えども、共謀して競争制限的な取扱をメーカーに要求していることには変わりがないからである。
     それでも最後にはロビンソン・パットマン法によって、費用の差に基づかない数量割引は禁止された。この法律はチェーンストアに対して中小業者が対等の仕入条件の下で競争できるように、という趣旨だが、それでも競争制限的なものとして批判する学者も多い。
       ロビンソン・パットマン法は、中小小売店のチェーンストアに対する競争力を確保することで、中小小売店の小売業における地位を保護する効果が(それを推進した人々からは)期待されたわけだが、チェーンストアの伸長を食い止めることには明らかに失敗した。これが、ロビンソン・パットマン法が(先に述べた反対者とは別の人々から)批判されるもうひとつの理由である。ロビンソン・パットマン法が中小小売店を守り切れなかった理由については、メーカーの流通政策に関連して、後に取り上げる。

百貨店法-日本における中小小売店保護
     中小小売業者を保護するために、大規模小売店の新設や増築を制限する法律は、じつは日本では戦前からあった。1937年に制定された百貨店法は、店舗面積1500㎡(政令指定都市では3000㎡)以上の店舗をひとつでも持っていて、多種類の商品を扱う小売店を百貨店と定義し、店舗の新増設はもちろん、営業そのものも許可制としていた。その目的は「中小商業の事業活動の機会を確保」することにあった。
     百貨店法は終戦後10年ほどの中断期間があったが、1973年まで存続した。しかしこの規制は次のような大型店をカバーしていなかった。
    1. 食品スーパーマーケットは多種類の商品を扱っているとは言えない
    2. 規制は企業単位なので、ひとつの建物を複数の企業で持っている形式にすれば、どの法人も百貨店には当たらないと言うことになる
    3. スーパーマーケットの小規模なテナントも2と同じ

商調法
     いまは食料品を買う店として誰もがスーパーマーケットを真っ先に思い浮かべるが、1960年代までは決してそうではなかった。特に生鮮食料品の取り扱いには職人的な知識と技術が必要で、中小小売店の天下であった。この中小小売店が集まった小売市場が、戦前から長い間生活必需品の最も近代的な小売業態であった。
     この小売市場が増加し、相互の競争が激しくなったために立法による規制を求める動きが起こり、曲折を経て1959年に小売商業調整特別措置法(商調法)が成立した。
       これは、指定された都市(いわゆる政令指定都市のほか、人口急増中のベッドタウンが数多く指定されていた)で一定以上の規模の「小売市場」を開設するときは、施設の貸し付け・譲渡のさい、都道府県知事の許可を必要とすることを定めている。
       知事は周辺の競争が過度となるときは許可を下ろさないことができたが、その基準は(中小企業庁長官通達により)距離基準を中心とすることになっていた。都道府県ごとに決定した目安の距離(大阪府では700メートル)以内に他の小売市場がなければよく、あっても同意を取り付けられれば開業できた。
       この法律は、「小売商の事業活動の機会を適正に確保し、及び小売商業の正常な秩序を阻害する要因を除去」することを立法趣旨としていた。つまり、既得権を新規参入小売店の利益より優先する、ということは趣旨に含まれていなかった。このため、新規に開設を予定する小売市場が正面から争うと、規制が有効に働かないことがしばしばであった。
       1970年代になってスーパーマーケットが生鮮食料品を扱うノウハウを十分に蓄積した後は、小売市場の開設そのものが減って、この法律は意義を失ってゆく。

大規模小売店舗法
     1973年に制定された大規模小売店舗法は、次のような特徴を持っていた。
     中小業者の保護だけでなく、「消費者利益の保護に配慮」するという一項が立法趣旨にうたわれた。
     許可制から届出制になり、届出内容をもとに協議する、と言う形式になった。
     規制の単位を建物に置き換え、次のような2段階の手続きを踏んで、地元の小売業者・消費者と協議することになった。大型店の範囲は当初1500㎡(政令指定都市は3000㎡)以上であったが、それ以下の中規模店も地方条例で取り締まる地方自治体が相次いだため、1979年に500㎡~1499㎡の店舗を「第2種大規模小売店舗」として同様の規制に服せしめた。
      1.建物の設置者による届け出(3条届け出)
      • 商業活動調整協議会(事前商調協)による調整
      2.小売業者による届け出(5条届け出)
      • 商調協による再度の調整(正式商調協)
     しかし実際には、地元小売業者の同意がなければ商調協が通らず、3条届け出の前の地元への事前説明段階で、消費者抜きで実質上の交渉が行われることも多かった。出店表明から3条届け出まで7年かかったケースもあると言う。
     また、「地元への影響の大きさ」についての基準がないために、いたずらに譲歩を求めて交渉が長期化することが多かった。1990年頃に行われたある研究によると、大手スーパーの出店表明から開店までの平均期間は4年3ヶ月、出店表明以前の非公式な打診や立地選定期間にさらに1~2年を要したと言われる。
       これによる人件費や対策費の増大は出店者の負担となり、結局のところ消費者に転嫁されることになる。また、店舗面積が個別の案件ごとに様々な削られかたをするため、店舗のフォーマットを統一できず、設計・建築費用の増大とその後の経営判断上の非効率がもたらされた。宮沢健一編「価格革命と流通革新」p.262-263を参照。
     上乗せ・横出し規制と呼ばれる地方条例による規制の追加が、出店の困難さに拍車をかけた。全国で11の都道府県は(埼玉県も含めて)大企業の出店はどんな店舗規模でも規制する、というものであり、百貨店法と同じ「企業主義」をとっていた。
     そのほか、市外資本の出店を規制する条例を持っている自治体(静岡市など)などがあった。
     この間、3条届出までの事前説明を義務化するか、など、少なくとも4回、法律の運用が通産省の通達だけで変更されており、不透明なイメージをあおった。
       特に1982年には「大型店の出店が相当水準に達している地域」に対しては行政指導で出店を抑制すると通産省は発表したが、1990年にこれが撤廃されるまで、ついにその地域がどことどこを指すのかは公表されることがなかった。

大店法の緩和
     1991年2月、大店法の部分改正と共に、事前説明を届け出の条件とすることは廃止され、3条届出から1年以内に出店調整処理を終わることになった。ただし実際の運用緩和は1994年6月である。
     あわせて、都道府県商工会議所の諮問機関であった商調協は廃止され、審議は第1種大規模小売店舗においては全国レベル、第2種においては都道府県レベルの大店審で行われることになった。
       これまでもこうした機構は存在していたが、地元の商工会議所と商調協に再諮問して、その結論を受け入れ、両論併記の場合には多数意見を取るなど、形式的な審査に傾いていた。
       商調協が事案ごとに編成されるのに対して、大店審はせいぜい都道府県にひとつ(審議の中心となる審査会は2つ置かれている都道府県もある)で、直接の利害関係者ではないメンバーが審議の中心となる。審議に当たっては、全国市町村を16の類型に分けて、同じ類型の市町村と比較しながら調整することになった。
     地元商工会議所は公式には審議に加わらないが、意見を集約して陳情する活動を行っており、大店審が独自の判断をどれだけ示すかが新制度のポイントとなる。
     また、第1種小売店舗と第2種の区分は、1500㎡から3000㎡(東京都区部と政令指定都市は3000㎡から6000㎡)に変更された。
     上記の改正が施行された1992年1月以降、通産省の指導によって地方自治体の独自規制の多くが撤廃された。
       その後の不況にもかかわらず、1989年度には794件だった通産省への届出件数は増加基調で推移し、1996年度には2269件に達した。(波形克彦「『大店法廃止』 影響と対応」p112参照)
       大店審に関係する学者(複数)に聞いたところでは、大店審による面積の削減は次第に行いにくくなったという。

大店法の廃止と大店立地法
     その後も大店法廃止に向けたアメリカの働きかけが続き、これを追い風とした商業政策の見直しによって、1998年5月に大店立地法(大規模小売店舗立地法)が成立し、施行と同時に従来の大店法が廃止されることになった。
       この法律の施行は2000年6月1日、規制対象となる大規模小売店舗の下限面積は1000㎡となることが、1998年10月の政令により定められた。
      大店立地法は、審査の主体を都道府県・政令指定都市に一本化し、審査の結果はあくまで勧告であって、従う義務もなければ罰則もない(従わなかったと都道府県等が考えるときには、その旨を公表されることはある)と定めた。しかし加えられた最も大きな変更は、審査の観点についてであろう。
       第1条(目的)において、この法律は「大規模小売店舗の立地がその周辺の地域の生活環境を保持しつつ適正に行われることを確保」するのだとうたわれた。届け出られた案件については、一定期間誰でも意見を述べることができるが、それらを定めた条文にはしつこいほど「生活環境の保持の見地からの意見」という表現が登場する。言い換えれば、地元小売業者の利害をあからさまに主張するものは受け付けない、ということである。
       生活環境の保持が具体的に何を指すかは、条文で「円滑な交通の確保その他の周辺の地域の住民の利便の確保」と「騒音の発生その他による周辺の生活環境の悪化の防止」が挙げられているが、最終的には都道府県・政令指定都市が判断することになる。通産省は1999年7月に大店立地法環境指針を公表したが、その中には平均来客数などから駐車場の必要面積を算出する式、廃棄物の必要保管スペースを求める式などが具体的に示されている。しかし周辺の交通渋滞など数値化しづらい要素もあり、今後の見通しがつけにくいことから、大店法の適用を受ける期間の最後には駆け込み出店申請が相次いだ。
      その後、出店ペースは下がったままである。上記の環境基準を満たす費用増加の影響が指摘されるほか、大手スーパーマーケットの経営危機が相次いで顕在化し(逆にウォルマートの上陸を警戒して出店を加速しているケースもあるが)設備投資に慎重な見方が広がってもいる。しかし基本的には、現在の大型店が日本の消費市場に対して過剰(オーバーストア)であるという認識が広まっていると考えるべきであろう。
    

<考えてみよう>

 ミクロ経済学で習ったところによれば、効率の上では競争を妨げないほうが良い。しかしまた、市場経済に巻き込んだだけでは弱い(貧しい)人々は弱いままであることも習った。
 競争を抑制する法律が政治的な支持を受けたと言うことは、市場メカニズムの良さに日本人は納得していなかったのだろうか。規制によって利益を受ける、特定の立場の人々だけが声高に規制を主張したのだろうか。それとも、当時の日本の経済状態が法律制定に影響を与えたのだろうか。

<A name=07>第7節 中小小売店保護の視点(2)評価と模索</A>

大規模店舗規制政策の評価

     中小小売業の営業機会を直接保護する大規模店舗規制政策は、「生産性」を直接に犠牲にしているし、「有効性」の観点からも消費者の選択の機会を奪っている。また、大規模小売店間の競争を制限することで「競争促進性」の観点からも悪影響があると考えられる。
       大規模小売店の出店が困難であることは、裏返してみれば、いったん参入が実現すれば近隣に競争相手が進出することは少ない(しかも反対運動は地元の中小小売店が手伝ってくれる)ということである。
     「公平性」の観点からは、ある程度の小売店密度が確保されることが望ましいと思われる。ただ日本において、現実のスーパーマーケット等の進出がこのレベルにまで問題を及ぼすかどうかは、検討の余地がある。むしろ大規模小売店が地方の不採算店舗を整理して、その周囲の商業集積が活気を失う例もある。例えば長野市ではダイエーとそごうが相次いで撤退を発表し、核店舗を失うことのデメリットが懸念されている。
       スーパーマーケットのすぐ近くには、しばしば生鮮食料品店や惣菜店が立地している。明らかに、スーパーマーケットの集客力を当てにした立地である。中小小売店にとって、大規模店舗が近くにあることは損なことばかりではない。
     中小小売店の存続が保証されることそれ自体が政策目標であると考えれば、もちろん大規模店舗の規制は正当化される。しかし大規模小売店舗法は、そうした旧来の考え方を修正する立法趣旨を持っていたはずである。
       工業や第3次産業が十分に発達していない段階では、農業や商業への「不完全就業」は、失業問題や都市問題の先鋭化を防ぐ効果を持つ。おそらく日本の戦後の経済回復の過程で、農業や商業を「手伝う」かたちで失業者が一時的にせよ吸収されたことは、このような側面があった。

規模の経済・範囲の経済に対する政策的判断
     「生産性」の観点からは、規模の経済・範囲の経済は最大限に発揮されることが望ましい。少なくとも、そうした方向に事業を展開しようとする企業家たちには、その機会を提供すべきであろう。
       企業あたり・生産設備あたりの生産量を(現在より)増やすことで平均費用が低下するとき、(その生産量では)規模の経済性が存在する、または規模の経済が働くという。
       ひとつの企業が複数の事業を兼ね行うことで、トータルに費用を節約できるとき、範囲の経済が働くという。例えば電力料金の払い込み窓口を夜間に維持するより、もともと夜間に開いているコンビニに業務を委託するほうが、電力会社にとって安上がりである。
     「有効性」の観点からは、規模の経済を追求することで、サービスのきめ細かさなどが失われる可能性がある。ただしこの場合、サービス水準と消費者の払う価格帯の異なるふたつの業態を併存させればすむ(と考えられる)ことが多い。
     「公平性」から見れば、小売店が整理されすぎると移動の困難な老人や身障者がまず不利益を受けるので、規模の経済・範囲の経済を追求することのデメリットにも注意すべきであろう。ただし、「公平性」への配慮が最も必要とされるのは、大型小売店が興味を示さないような過疎地域などである。
     さきに述べた理由により、「競争促進性」の立場からは大型小売店同士の競争が起こることが重要である。ただしここでも、人口密度、あるいは「購買力」の低い地域では、規模の経済を追求してゆくと、自然独占が生じてかえって価格帯が上がる可能性がある。
       地方に出店し、近隣に大規模小売店がないスーパーマーケットは、衣料品の比率を高めるなど、百貨店に近い高級店としてのフォーマット(品揃え、売り場配置、内装など店舗の基本的なデザイン)を持つ傾向がある。この場合、「有効性」の観点からはその地域に欠けていた流通サービスが供給されて結構なことだが、「生産性」の観点からは物価抑制にはあまり効果がない出店であったということになる。

VCによる対抗
     チェーンストアへの対抗策として、むしろ古典的ともいえるほど古くからあるのが、中小小売店が仕入れなどの活動を共同化することである。
       イトーヨーカ堂がセブンイレブンの日本でのフランチャイザーとなったひとつの動機は、スーパーであるイトーヨーカ堂と中小小売店の共存の道をさぐるところにあったといわれる。アメリカのセブンイレブンはもともと直営店ばかりで出発し、既存小売店を改造したフランチャイズは少ないが、日本では最初からフランチャイズが志向された。川辺信雄「セブン-イレブンの経営史」p.77-78およびp.174参照。
     一定のフォーマットやサービスマークを採用させ、チェーン本部(フランチャイザー、略してザー)が強く経営に関与するが、個々の店舗の経営者(フランチャイジー、略してジー)が最終的には経営の責任を負うタイプのチェーンを、フランチャイズ・チェーン(FC)と呼ぶ。
       マクドナルドやセブンイレブンは典型的なFCである。FCはフランチャイズ店舗のほかに、実験やスタッフ教育のためにいくつかの直営店舗を持っているのが普通である。
       セブンイレブンのフランチャイズ店舗のほとんどでは、発注はジーの経営者や店員の責任で行うが、商品代金はザーがジーに貸した形式になっている。(この分に対する金利をジーはザーに払わなければならない)売上はまずジーに入る。ジーはザーに、あらかじめ決められたフランチャイズ料(コンビニでは普通は粗利益の一定比率)を支払う。セブンイレブンのシステムでは、ザーは自分の名前では商品の売買は行わないが、セブンイレブンという名前はサービスの同一性を消費者に認識させるために重要である。
       そこで、商標ではないがサービスの同一性を表す名称をサービスマークと呼んで、詐称などから権利者を保護するための法的制度が商標とは別に設けられている。
       実際にザーがどこから利益を上げるかについては、いろいろなパターンがある。例えばローソンなどではフランチャイズ料のほかに、ザーが卸としてのマージンを受け取るし、別のチェーンではジーに供給した商品から受け取る売上高リベートを本部の収益の柱としているケースもある。
     これに対し、既存の小売店を組織し、チェーン本部が限定的な支援(共同仕入など)を行うのがボランタリ・チェーン(VC)である。
       すでに戦前において、大阪の公設小売市場のテナントが共同仕入を行ったり、市場特製品(今で言うプライベートブランド)の供給を受けていたりした例がある。
       VCには、小売店が組織するものの他に、中小小売店を主な販路とする卸が取引先を組織するものもある。
       VCはFCや直営店舗のチェーンストアに比べて、店舗の自主性を認めていることから、統一的な行動のための内部調整に時間や費用がかかる(あるいは、行動の統一に失敗する)という欠点がある。
       このためVCは大規模になるほど内部調整の問題が大きくなり、メーカーに対して価格交渉力を十分に強めることが困難である。


改正都市計画法と中心市街地活性化法
     大店立地法(大店法の廃止)が中小小売業者にとって厳しい内容であったのと呼応するように、この時期に相次いでふたつの法案が成立した。
     都市計画法が改正され、市部及び一部の郡部については建設大臣の認可を受けて都道府県の権限で策定する都市計画の中で、大規模小売店の出店を規制する区域を設けられることになった。
       これは行政による個別の出店規制であるため、その地域の地方自治体が政治過程で様々な利害を調整して実施することになる。ある意味で理想的な制度であるが、調整がついて適用例が現れるまでには時間がかかるであろう。
     中心市街地活性化法は、既存商店街を活性化する地域の取り組みに、98年度だけで総額1兆円の補助金をつけるというもので、対象事業は11省庁、150種類にわたる。
     この政策が実効を挙げるかどうかのポイントは、街づくりのノウハウを地域商店街や商工会議所がどの程度会得しているかにあり、逆に言えばこの点が最も懸念されている。
     共同の投資をめぐる内部の調整は非常に困難である。例えば営業時間はだいたい揃っている必要があるし、商店街全体として抜けた業種があれば、消費者はその商店街ですべての用事を済ませることができず、魅力が下がってしまう。
     特にたびたび指摘されるのは、この種の事業が成功するためには、有能でかつ自分の小売店の利害を超えて情熱と時間を注ぎ込むようなリーダーがその地域にいなければならない、という点である。

<考えてみよう>

「弱い零細小売店」に十分な利ざやを確保しようとすれば、「弱い消費者」の支払う額は大きくなる。小売価格を上げないで小売店の取り分を増やせば、「弱い中小メーカー」は無理を言われるばかりである。どう考えても全体の辻褄(つじつま)は合わないように思える。経済的弱者は政策的に保護すべきである、という考え方は、不合理なのだろうか。

<A name=08>第8節 メーカーの流通政策と政府の競争政策(1)流通系列化と製販統合</A>

競争促進政策

     日本では、戦後になって初めて独占禁止法がGHQの指導下に成立した。この法律は、私的独占の排除を目的としている。
       以前に述べたように、独占禁止法体系はアメリカで生まれ、アメリカの国情を暗黙の前提としている。これを十分な国内議論の成熟無しに取り入れたため、運用においていくつかの混乱が生じているように思われる。
       本来の独占禁止法は、単にある企業が競争に勝って巨大化したからといってその行動を制約するものではない。経済的に合理性を主張できない合併や共謀を防止するものである。裏返して言えば、ある企業が十分な競争力を持たないというだけの理由で、保護の対象とするものではない。もともと独占禁止法は決して、弱い者の味方ではないのである。
       日本の場合、1950年代に独占禁止法を改正する過程で「独占的地位の濫用」という禁止行為を付け加えるとともに、下請法という別の法律を制定して同じ公正取引委員会が運用することとしたので、弱者保護の視点が混在することになった。この水と油のような二つの要素をどう妥協させていくか、学者の間でも十分な意見調整は行われていないように思われる。
     私的独占を阻止し、企業間の競争を確保することで、市場メカニズムの働きで効率的な資源配分とレントの除去が実現するというのが、独占禁止法の基本理念である。

当然違法と条理の原則
     合併や提携の形であからさまに私的独占を図る動きを規制することは、比較的容易である。しかしもっと微妙な形で、市場から競争者を締め出そうとする行動があった場合、独占禁止法はそれを阻止できなければならない。
     そこで、メーカーが独立した別業者に小売価格を指定するなどいくつかの行為は、意図はどうあれ違法行為であるとされている。こうした場合、その行為は当然違法である、という。
       違法行為ではあるが、談合などのように犯罪ではない。公正取引委員会はせいぜい、その違法行為を止めろ、という排除命令を出すだけである。ただし不当利得の返還という趣旨で課徴金を納付するよう命じることがあって、事件によっては課徴金は巨額なものになる。
       排除命令や課徴金納付命令に不服な企業は、公正取引委員会内部での審決を経て、東京高裁、さらに最高裁へ裁判を起こすことができる。
     これに対し、例えば専売店制度は、有力なメーカーが小売店をすべて囲い込むように運用すれば、競争者の締め出しにつながるかもしれないが、シェアの低いメーカーなら経済全体への悪影響は無視できる。そこで、こうしたケースでは実行する企業の競争上の地位を考えて、違法かどうかを判断することになる。この考え方を条理の原則という。
       上記の説明は、日本での標準的な解釈・運用である。アメリカの教科書には、条理の原則とは要するに禁止のメリットとデメリットを評価することだ、と書いているものがある。この考え方だと、有力企業でも費用節約などの合理的な理由があれば、こうした行為をしてもよい場合があることになる。
       例えば化粧品メーカーが対面販売や訪問販売を義務づけ、この契約条項を楯にとって、ディスカウントストア等への出荷を止めようとすることがある。この考え方によって、判例はオッペン化粧品(化粧品シェア2%)の訪問販売強制は違法とまでは言えない、としている。経済法学会編「日本の取引慣行と独禁法」p.45参照。その裏返しに、有力メーカーであることからいったん対面販売強制を違法とされた資生堂の判決はその後上級審で覆り、商品説明のための対面販売義務付けは(販売方法が広く定着しているので)違法ではない、という判例が確定した。
     独占禁止法の規制対象となるいくつかの行為類型は、流通に関わるものである。そしてそれらはまた、メーカーがしばしば実施したいと望む行為でもある。


流通系列化(小売店支援)

     流通系列化というのは、とくに経済や経営に興味がなくても耳にすることの多い言葉である。この講義ではこの言葉を「小売店や卸が、メーカーからの出資・役員派遣や経営支援、あるいは有利な取引条件を受け入れて、特定メーカーの利益のために比較的多くの経営資源を投じること」と定義しておく。
     流通関連の書物で、日本では諸外国に比べて流通系列化が進んでいる、と簡単に記述されることが多い。しかし、流通系列化という言葉はあまりにも多くの意味で使われており、共通の議論の土台として適切でないとすら感じられる。
     大きく分けて、流通系列化には次のふたつの内容がある。業界とメーカーによって、両方が実現されていることも、片方だけのこともある。
    1. 卸の系列化・販社化
         卸売段階について、特定メーカーの取引比率の高い、あるいはまったく特定メーカーのみの卸をつくる。特定メーカーの製品のみを扱い、資本関係や役員構成の面でメーカーの関与が大きいものを、特に販社と呼ぶことが多い。
         販社化と並行して一店一帳合制度と、テリトリー制の確立が進むことが多い。
    2. 小売店の系列化
         小売店内に占める自社シェアが高い小売店を組織化し、自社製品を優先的に売るように説得する。家電製品などでは自社シェアをかなり高くできるが、他の業界ではそれは現実的でないことも多い。
     いずれも、メーカーにとって巨額の投資を必要とし、維持のための費用もかかる。ある程度の大手メーカーでなければその費用を回収できないことは事実だが、大手メーカーにとっても系列化投資を行うことが得になるとは限らない。
     流通系列化の進んだ業界に後から参入することは、一般に困難となる。参入企業の事業規模は最初は小さいであろうから、規模の経済の存在する活動を他のメーカーの分とまとめて行ってくれる卸が存在しないと、参入企業の費用条件は不利になるからである。
     また、流通系列化は、メーカーがブランド内競争を抑制するために利用できる。ブランド内競争の抑制は、非効率的な流通業者を競争圧力から温存し、生産性に悪影響が及ぶことも考えられる。
     しかし、売買に合わせてサービスを提供することが重要な業界では、他のブランドとの製品差別化のために流通系列化を行うことがメーカーにとって合理的である。これは流通業者の他の業者からの差別化とも結びついており、流通業者の有効性を促進する場合もあろう。流通業者が専門家として消費者の相談に乗る(相談販売あるいは推奨販売)ような業界では、サービスの提供と特定製品の販売促進は同時並行的に行われるので、特にメーカーにとって流通系列化の誘因は大きい。

テリトリー制

    メーカーと卸売業者・小売業者が次のような契約を結ぶことを言う。
  1. 厳格な地域制限-小売店は、割当地域に住む消費者にしか販売してはならない。
       日本では、有力メーカーが行う場合には、小売店や卸売業者、そしてもちろん消費者の交渉の余地(つまり他の選択肢)を奪い、価格を高めに維持する効果があるので、条理の原則が適用される。
  2. 主たる責任地域制-宣伝区域やセールスマンの巡回区域を決めるが、消費者の側から取引を持ちかけてくれば応じてもよい。
  3. ロケーション制-営業所を割り当て区域外に置いてはならないが、販売活動は自由に行って良い。
    日本では2や3は規制されない。
一店一帳合制度
     メーカーが、それぞれの小売店の仕入先を(ある範囲でならどこでもよいが)ひとつの卸に限定することをいう。厳格なテリトリー制を敷いた場合と同様に、ブランド内競争は制限される。しかし今のところ法的な規制はない。

製販統合

     特定メーカーと特定の小売店が協力し、トータルにコストを削減したり、片方だけでは困難な新事業を起こしたりする動きが盛んである。こうした動きを総称して製販統合と言う。詳しくは取引慣行論で扱うが、販売データを小売店がメーカーに提供し、メーカーは多頻度少量配送に対応できるよう生産設備に投資する、というようなものが典型的である。
     製販統合は誰も傷つけない改善のように見えるが、いったん特定の相手のために行った投資は、取引相手を変更すると無駄になってしまうので、互いに他の選択肢を狭めてしまう可能性もある。いわゆる強者連合が他の組み合わせを圧倒してしまえば、最終的には競争メカニズムが働かなくなる可能性もある。
       もっとも実際には、部品供給やプライベート・ブランド品供給を巡っては、この問題に対するきめ細かな(逆に、しばしば思い切った)対応が取られている。例えばCDプレーヤを開発するとき、富士通はソニーに半導体設計のノウハウを提供した。これによってソニーはこの分野で急速に開発力をつけ、CDプレーヤに使うLSIの市場では富士通が負けて撤退することになったが、ソニーからビデオ用LSIなどの受注は増加したと言われる。また、セブンイレブンは納入先メーカーに惣菜などの自社専用工場を作らせる際、採算が取れるだけの注文を回すよう特に留意するという。



<考えてみよう>

 あなたの勤務する会社の製品は、小売店の扱う同種製品の中で、ごくわずかな比率しか占めない(典型的なのは、スーパーマーケットでの食料品)とする。小売店が自社製品を並べてくれれば消費者の目にとまるが、ライバルメーカーにとってもそれは同じである。あなたはどうやって、小売業者に自社製品を棚においてもらったらいいだろうか。
 次の3つは、それぞれどのような利点と欠点があるだろうか。
(1)メーカーが自社製品を売るために小売店などの流通業者を組織し、消費者に対して販売促進活動を行っていく。
(2)小売店(のチェーン本部)が消費者のニーズをつかみ、それに応じる努力をする一方、商品企画や納品システムについて小売店からメーカーに要求を出す。
(3)消費者が協同組合を設立し、生産から販売までをコントロールする。

<A name=09>第9節 メーカーの流通政策と政府の競争政策(2)価格維持と数量割引</A>

再販売価格維持制度

     メーカーが卸や小売店に対し、卸や小売店が売る価格を決める取引制度を、再販売価格維持制度(再販制度)という。日本では書籍・雑誌・新聞・レコードやテープ・音楽用CDについて、再販制度が認められる。
     再販商品は、法定商品と指定商品に分かれている。書籍・雑誌・新聞・レコード・テープ・音楽用CDは、「著作物」として法律の中に明記されていて、「法定商品」と呼ばれる。法律によって判断を委ねられた公正取引委員会が指定する「指定商品」もあったが、1997年4月1日をもって、最後に残った大衆薬と化粧品が指定を取り消された。
       残った再販商品について、公取委は2001年3月、当面制度を存続すべきであるとする見解をまとめた。
     メーカーが決めた価格を小売店が守らなかったからと言って、国から罰金を取られたり刑務所に入れられたりということはない。価格を守らなかったときに取引を停止されたり供給量を減らされたりする罰則は、メーカーと流通業者が自分たちで決めて契約に書き込む。
     一般には、この制度は、下流での自由な価格競争を妨げるので、当然違法とされている。家電製品を始め、いろいろな産業でこっそりメーカーが価格の維持をはかる「ヤミ再販」が公正取引委員会によってしばしば摘発されている。
     小売店は、ブランド内の競争が激しく価格が維持できないブランドからは、利益を得にくい。メーカーは小売店の支持を失う不利益に加え、価格低下によってブランドへの高級イメージを失うことになる。これが再販制度が根強く支持される理由である。伊藤元重「日本の物価はなぜ高いのか」p.34参照。
     再販はほとんどの国で、違法とされる場合には当然違法であるが、条理の原則を適用すべきであるという提案も外国では見られる。経済法学会「日本の取引慣行と独禁法」p.98-99参照。
       メーカーの志向する再販はふつう下限価格規制であり、上限価格規制はまれである。アメリカでは上限価格規制も違法であるという判例があるが、イギリスなど幾つかの国では下限価格規制だけが法的に禁止されている。
       ただしアメリカでは自動車について、メーカー希望小売価格の表示を新車に貼り付けることを義務づけている。ディーラーが高い下取り価格を提示し、新車の価格を吊り上げて元を取るという商法が一時横行したためである。塩地・キーリー「自動車ディーラーの日米比較」p.75参照。

外部効果を伴うサービスと再販

     修理サービスなど外部効果を伴う活動を流通業者が行っている場合には、再販制度を取ったほうが結局消費者の利益になるという説もある。中田善啓ほか編「マーケティングのニューウェーブ」第8章、および経済法学会「日本の取引慣行と独禁法」p.96-97参照。
     パーソナルコンピュータには通信販売中心の業者がいて、いっさい商品の説明をしない代わりに、その分価格が安い。日本橋や秋葉原にある、きれいなビルの大手量販店へ行って、カタログをもらって実物を見て店員の説明を受けて、近くの電話ボックスから通販業者に電話をかける、というのが消費者に取って安上がりであろう。しかし消費者がみんなこういう行動を取り始めれば、どの店も展示や説明はしなくなるだろう。

       この記述は旧版から引き継いだもので、こうした業者は最近では激減し、残った業者も自作機やパーツ販売などに比重を移している。最近のパソコンは3ヶ月ごとに新製品に切り替わるのが通例になっており、生鮮食品のように在庫の陳腐化があっという間に進む。メーカーも在庫の安値処分を繰り返すのに懲りて、機種切り替わり直前になると売り切れ機種が出てもよい、という態度で流通在庫がだぶつかないようにしている。このため、人気機種を確保できる程度にメーカーとの良好な関係を結んでおくことが、量販店にとっても前提条件となっているのであろう。だから現時点では、商品知識のある店が廉売店でもある、という構図が成立している。

     この説の弱いところは、実際に再販制度が認められている財が、こういった例にふさわしい財とはほど遠い、というところである。


数量割引・売上高リベート

     大規模な小売チェーンが、数量をまとめて交渉することによって、より安い仕入れ価格をメーカーや卸から引き出そうとすることは、広く見られる現象である。メーカー側でも、客層の異なる小売店を区別したり、小売店や卸の協力を引き出すという観点から、大口の注文には値引きをする理由がある。そうした理由で、数量割引や売上高リベートは広く用いられている。
     日本の場合、メーカー←→卸売業者←→小売業者の取引は、価格とリベートの2本建てのことが多い。リベートは一定期間後にメーカーから払い戻されるもので、いろいろな基準のものがあるが、その期間の売上高が多いほど、払い戻し率が大きくなるもの(売上高リベート)が主である。
     大規模小売チェーンは全体で一括してメーカーと価格交渉するので、最も安く仕入れることができる。しかしすべての取扱製品を一括仕入にしてしまうと、地域の事情に合った品ぞろえが出来なくなるし、各店舗の工夫の余地がなくなると言うマイナス面もある。各小売チェーンは本部の取扱商品決定権を大きくしたり小さくしたり、まちまちの姿勢を取っている。同じチェーンでも方針が大きく変更された例もある。
     日本では、売上高リベートには条理の原則が適用される。極端に累進的なリベート体系を有力なメーカーが採用して、競争するメーカーの財の取扱いが結果的に制限されたりしない限り、違法とはならない。
       アメリカでは、ロビンソン・パットマン法という法律によって、数量による割引であっても、生産・配送のためのコストの差に基づかない非線形価格は禁止されている。
       例えば、半年間の仕入額が何万ドル以上なら2%引き、などというのは、日本のリベートではよくあるが、アメリカでは違法である。10トントラック1台分を一度に注文すると2%引き、というのはアメリカでも認められるが、実際に10トントラックを走らせた場合の配送費が、小口の配送よりも販売価格の2%だけ安い、という費用計算に基づかなければならない。
       日本では独占禁止法に基づき、公正取引委員会が「不公正な取引方法」を指定しているが、この中に「差別対価」というものがある。単に数量がまとまっているというだけで対価を変える合理的な理由になるかどうかは、まったくの法律運用上の慣習で決まっているのである。
       売上高リベートの制度は、しばしば横流しを生じさせる原因になる。つまり自分の店で売れるよりも多く仕入れて、全体を大きな割引率で手にいれ、売れ残った一部をこっそり捨て値で処分するのである。

プライベート・ブランド

     ロビンソン・パットマン法は、大規模チェーン店が小規模店と同じ品物を安く仕入れることを禁止している。では違う品物ならば良いわけである。アメリカの大規模チェーンが小売店独自のブランド(プライベート・ブランド)の商品を積極的に取り扱う理由のひとつはここにあると言われる。
     あるチェーンのプライベートブランドを生産するメーカーは、他のチェーンで不利な扱いを受けることがある。従ってプライベートブランドの供給は、メーカーにとって小売チェーンとの重要な交渉材料となる。旧製品をプライベートブランドとして供給する代わりに、新製品に棚の有利な位置を割り当ててくれるよう要求する、といった交渉となる。
     逆に最近では、他店との価格比較を避けるため、独自型番を付すようメーカーに要求する家電量販店がある。小売店間競争がメーカーに持ち込まれてくるわけである。

トレード・ディールとダイバーティング

     大規模チェーンに対して数量割引を行うことは違法でも、別の(小売店に)有利な取引を持ち掛ければ法に触れない場合がある。共同の宣伝活動を行うなどの名目で、メーカーが小売店に払うのがトレード・ディールである。これらは小売店にただ取りされるケースもあり、共同販促の実行を確認する(もしただ取りを放置すればロビンソン・パットマン法違反で莫大な課徴金や損害賠償を請求されかねない)コストがメーカーにとって無視できないものになっている。
     ロビンソン・パットマン法は「特定地域のすべての買い手」に対して割引を行うことを禁じていない。あるメーカーが自社のシェアの低い地域で安売りのキャンペーンを企画したとすると、大規模小売チェーンや大規模な卸は他の地域の分までその地域で仕入れることで納入価格を下げることができる。これをダイバーティングという。他地域まで商品を運ぶための運送費と排気ガスは、社会にとってまったくの無駄ということになる。
     このように、ロビンソン・パットマン法にはいくつかの抜け穴がある。

</UL>
<考えてみよう>

 ブランド間競争が十分に行われていれば、小売店や卸とメーカーがチームを組んで、同一ブランド内での価格競争を制限しても消費者に不利益はない、という意見について、あなたはどう考えるか。
 メーカーが「販売力のある」小売店に「どこに置いても売れる」商品(話題のベストセラー書籍やゲーム機の新製品)を優先的に供給しようとすることはよく見られる。メーカーは何を期待しているのか。
 メーカーが「販売力のある」特定の小売店と深い関係を結ぶことを規制するとすれば、どんな理由で、どんな行為を規制すべきだと思うか。

<A name=10>第10節 メーカーの差別化政策と政府の消費者保護政策</A>

     もしあるメーカーの製品が、まったく他のメーカーの製品と区別がつかないのであれば、その製品は絶え間ない競争にさらされる。メーカーは消費者に自社の製品を他の製品と区別してもらえれば、より安定した顧客を得られるし、他社製品より高い価格を消費者に認めさせることもできる。
     メーカーは、しばしば数種のブランドを持っている。メーカーが価格帯の異なる同種の製品を生産しているときは、特定のブランド名を一部の製品にのみ使うことで、高価格帯製品の高級なイメージを維持することができる。

差別化と消費者の満足
     製品差別化としては、垂直的製品差別化水平的製品差別化を区別して考えると便利である。
       垂直的製品差別化は、高級品と普及品の分化である。このような差別化が成り立っていると、高級品とされていたものの価格が低下すれば、従来の普及品の市場をまるごと奪ってしまう。逆に安い普及品が参入してくれば、高級品はごく一部の高級品市場に追い込まれる。
       水平的製品差別化は、消費者の好みや地域の事情に合わせた市場の分化である。この場合、ある製品の価格が低下すれば、代替性の高い製品とまず競争が起こる。
     生産段階だけを取ると、多くの工業製品では規模の経済がみられる。製品差別化は、多品種少量生産につながるので、製造原価を引き上げる要因となる。消費者の満足というベネフィットが、このコスト(増加分)を上回るかどうかが、製品差別化が社会的に見て望ましいかどうかの鍵となる。製品差別化は常に望ましいとも、常に望ましくないとも言えない。
     一般的に言って、製品差別化は私企業の競争に委ねられたとき、行き過ぎる傾向があるのだろうか。それとも、足りなくなる傾向があるのだろうか。多くの理論経済学者の関心がこの点に注がれ、多くの特殊ケースが研究されたが、政策的な決定にすぐ利用できるほど一般的な結果は得られていない。製品差別化の分析を難しくしている要因には、次のようなものがある。
    1. 差別化の尺度をモデルの中のゲームのルールとして決めることは出来ても、それで実際の経済の出来事を説明しようとしたとき、現実の商品の差別化の程度を測ることは難しい。
    2. 均衡ではn種類の差別化された財が市場に現れる、と計算できたとしても、そのn種類の財を生産している企業は2、3社かも知れないし、逆にn企業がひしめき合っているかも知れない。観察される各企業のシェアや商品点数から、理論の正しさを確かめることが難しい。
     経済学者がこのような状況で言いそうなことは、「市場に聞いてみれば?」である。差別化した企業が生き残れれば、それは消費者の支持を受けて高コストをはね返したということであり、生き残れないとすれば消費者の支持が十分でなかったということである。この観点からは、差別化した企業の存続を直接保証する政策は、消費者に望まれない企業を温存することになる(かもしれない)ので望ましくない。

誘発需要
     例えば一般消費者が自ら抗癌剤への需要を持つことは考えにくい。専門家の意見を聞いて、あるいは時には専門家が一方的に押し付けて、消費者に財への需要が生まれることがある。同様に、宣伝による説得で需要が生まれることも考えられる。こうした誘発需要をどのように考えたら良いか、経済学者は今のところあまり良いアイデアを持っていない。

消費者保護政策
     消費者は誤った情報を与えられれば、誤った判断をするであろう。消費者には賞味期限などの基本的な品質情報が正しく伝えられなければならない。このため、不正競争防止法などいくつかの消費者保護のための法律が定められている。
     消費者は全体として、必ずしも合理的ではない。品質に差がなくとも、高い化粧品や衣服を有り難がるようなことは、毎日ではないにせよ、大抵の消費者が経験する。経済学は基本的に、消費者の望みはそのまま受け入れるので、こうした状況に対する処方箋は持っていない。

プライス・ミックス
     価格競争でよく問題になるのは、価格の安い目玉商品・おとり商品で消費者を引きつけ、他の商品も買わせてしまおうと言う商法である。いろいろな利潤率の商品が混在するので、これをプライス・ミックスと呼び、赤字覚悟の目玉商品をロス・リーダーと呼ぶ。
     アメリカやヨーロッパでは、大規模なスーパーマーケットはガソリンをロス・リーダーにしていることが多い。ガソリンを安く売って、消費者に車で来てもらって、何日分かの買い物をまとめてしてもらおうという発想である。日本でもすでにダイエーとジャスコがガソリンスタンド事業に参入しており、今後この方向に進む可能性がある。
       逆にアメリカのガソリンスタンドは1980年代以降、コンビニエンスストアを兼営するものが増えている。am/pmは日本では共同石油(現ジャパンエナジー)がフランチャイジーだが、アメリカの親会社も石油会社である。
     1930年、世界最初のスーパーマーケット「King
     Kullen」の創業者が、次のような考え方で価格を付けるような小売店を作りたい、と書いた手紙が残っている。
      300品目を仕入値で売り、広告する(ロス・リーダー)
      200品目を仕入値の5%増しで売る
      300品目を仕入値の15%増しで売る
      300品目を仕入値の20%増しで売る
       ロス・リーダーに釣られた客が、他の商品をついでに買っていくことでもとを取ろうと言うわけである。
     消費者が合理的で価格情報を十分持っているならば、ロス・リーダーだけを的確に食い逃げできるはずである。従って経済学はプライス・ミックスについては否定も肯定もしない。しかし、アメリカのいくつかの州では、小売業者や卸売業者が仕入値以下で売ったり、あまり低いマークアップ率(仕入値の何%増しで売るかと言う率)で売ったりすることを州法で禁止している。


不当廉売
     日本の独占禁止法でも、行ってはならない不公正な取引方法のひとつとして、「不当廉売」が挙げられている。(厳密には、法律に基づいて、公正取引委員会が指定している)しかしこれは、仕入値を下回る価格を、長期間にわたって付け続け、競争相手の営業を困難にしている場合のことを問題にしている。つまり、他の事業の儲けをつぎ込んだり、安売りのための資金を他から借りたりして、ライバル企業をつぶすためにやっているような安売りが「不当廉売」だという考え方である。全体としてバランスを取っているプライス・ミックスは、日本では必ずしも違法ではない。
       変わった例では、アメリカが自動車について、下取り価格の上限を法的に設定した例がある。塩地・キーリー「自動車ディーラーの日米比較」p.64参照。

<考えてみよう>

 今までに習った普通のミクロ経済学では、ひとつの財に複数の生産者がいても、市場でつく価格は一定だった。ブランド品が同種のノーブランド品より高価で取引されるとしたら、それは別の財になったと考えればよいのだろうか。
 また、その差異が広告などのイメージで「作られて」いて、心理的な満足が違うだけだとしたら、消費者はだまされているのだろうか。散髪など形のない「サービス」も「生産」されたと経済学では昔から考えているが、それと同じ意味で心理的な満足は「生産」されたと考えていいのだろうか。

 企業が10万円で仕入れたものを13万円で売ったとき、差額の3万円は「粗利益」または「付加価値」と呼ばれる。この3万円から従業員の給料や店舗の家賃や借入金の利子を払って、まだ残るものが経済学で「利潤」と呼ばれるものである。皆さんが日ごろ親しんでいる言葉遣いでは、粗利益ではあるが利潤ではないものも利潤と呼んでいることが多いに違いない。
 10万円で仕入れたものを、消費者の注意を引いたり説得したり、時には販促品を渡したりして13万円で売ったとき、その企業は3万円の付加価値を生産したことになる。その企業がつけた付加価値の総額は、従業員や関連企業のために作り出した仕事の総額でもある。言い換えれば、付加価値をつけられない企業は従業員の生活を守れない。
 いっぽう、付加価値をつければつけるほど、消費者は高いものを買うことになる。
「付加価値をつける」ことが社会のためになるのは、どういうときだろうか。

<A name=11>第11節 ダンピングと内外価格差</A>

     需要の価格弾力性という概念は、経済学の政策への応用に関してよく登場する。これは価格が1%上がると、需要が何%減るか、という尺度である。需要曲線の傾きが大きいことは、需要の価格弾力性が小さいことに相当する。
     2種類以上の消費者を区別できる場合、非弾力的な(需要の価格弾力性が低い)需要であるほど、高い価格をつけることが企業に取って得になることが多い。これを価格差別化という。
     国内で価格差別化を行うことには、独占禁止法で差別対価が禁止されているなど、一定の制約が課せられている。しかし国際的な価格設定については、独特の問題がある。

内外価格差
     同じ財の国内向けと海外向けの価格差を、内外価格差という。
     国内で別々の取引相手に対して、取引数量などの差がないのに差別価格を付けると独占禁止法違反になる。しかし内外価格差をつけることは、輸出する側の国の法律には触れない。
     安い財を輸出される国からみれば、それは消費者の利益であるが、国内の同業者の損失である。原価割れの輸出をダンピング輸出と言うが、アメリカ・日本など多くの国は、自分の国へのダンピング輸出を防ぐための法律を持っている。
       日本では関税定率法第9条で、日本へのダンピング輸出と認められるものに対しては、妥当な価格との差額を関税として取って良い、と定められている。
       実際に関税がかけられたことはほとんどないが、関税を掛けるように日本の業界団体が日本政府に申請して、それを交渉材料に輸出国の業界に自主規制することを約束させて、申請を取り下げたケースがすくなくとも3件ある。

参考:独占禁止法の域外適用
     ダンピングとは逆に、国外の企業が結託して日本への輸出価格を釣り上げたような場合、輸出国の法律では規制できないことがある。こういうときは、日本の独占禁止法を外国にある企業に適用する必要がある。日本の法律で外国にある企業を規制することになる。こうした法律の使い方を、域外適用という。
     日本でも域外適用が必要になった場合に備えて検討が進められているが、アメリカは特にこれに熱心である。
     域外適用の運用次第では、例えば日本独特の取引慣行によってアメリカ企業が日本で売上を抑えられているのはアメリカの独占禁止法(反トラスト法)に違反する、というような主張がぶつけられてくる可能性がある。

裁定行動
     逆輸入業者の例のように、ひとつの財にふたつの価格が付けば、安いほうで買って高いほうで売る、という動きが出る。これを裁定行動という。裁定にも取引のための費用がかかるから、企業は裁定の費用より大きな価格差はつけられない、ということになる。

並行輸入と薬事法
     化粧品については、日本では薬事法により、メーカーが全成分について申告した書類を示して認可を受けることが販売の条件とされてきた。この規定は化粧品の並行輸入を事実上不可能としていたので、製品などに記載されている成分表示を示せばよいことになった。
     ただし、外国の化粧品には日本で禁止されている成分(特にホルマリン)を含んでいるものが多く、国によっては全成分の製品への表示を義務づけていないため、今回の緩和の影響は限定されたものにとどまるであろうともいわれる。

開発輸入と小売業者
     自社の望む仕様(材料、包装、デザイン、味付けなど、製品の満たすべき条件)の製品を外国メーカーに作らせて輸入することを開発輸入という。1985年以降の円高で、卸や小売店の開発輸入が増えている。
     メーカーに比べて、流通業者はこうした生産面に関するノウハウに乏しいので、それを身につけるには多大な投資が必要である。しかしメーカーはすでに自社製品(生産体制)への投資をサンクしてしまっているのに引き換え、流通業者は同種製品の中から最も安いものを選択することが合理的である。いわゆる価格破壊の牽引車が製品輸入、とくに開発輸入であったことは明らかだが、それに当たって流通業者のプライベート・ブランドによる開発輸入や、流通業者による海外既存製品の輸入が果たした役割は大きい。


<考えてみよう>

 あなたが考える「不当な」廉売にはどのようなものがあるか。それは誰の利益や幸せを害するから不当なのか。
 様々な理由で、原価を割った販売や契約の落札は後を絶たない。消費者は喜び、売り手も自発的にそうしたことをするのに、法で禁止されたり、批判が集中したりするのはなぜだろうか。
 そうした廉売が、長期的に消費者の利益を損なうことがあるとすれば、それはどのような理由だろうか。

<A name=12>第12節 病状と対策</A>

     ひとつの国について、「よい」流通をただひとつ定義することはほとんど不可能である。それぞれの財や産業によって、流通業者に求められる機能が異なっていて、それに適した分業体制と流通形態も異なっている。
     政策論としては、よさ(健康)の尺度を求めるよりも、特定の歪み(病気)を定義して、その対策を練るほうが実際的であるように思われる。一般論としては、つぎのような視点が必要であろう。
      1.ある流通機能を、消費者・流通業者・メーカー・専門業者のいずれが行うのが、全体としての負担を軽くするか。
        例 賞味期限はメーカーがつけるのがよいか。流通業者がつけるのがよいか。消費者が自分で判断するのがよいか。
         スーパーが独自の厳しい賞味期限を定めて返品を増やすことは、食品メーカーの原価を高くし、最終的には小売価格に跳ね返る。
         消費者が賞味期限を判断するには、製造年月日の記載が必要である。しかし製造年月日を菓子などに記載すれば、1~2年の保存が可能な加工食品でも、すこし古くなっただけで消費者に買い控えられ、結果的に返品となる可能性もある。
         消費者は個々の加工食品が製造日からどのくらいのあいだ食べられるのか正確な知識を持っていないことが多い。
      2.その機能は消費者すべてに取って必要なものか。別売とした場合、それを必要とする消費者の利便を著しく損なうことになるか。
        例 化粧品や大衆薬の対面販売はすべての消費者に取って必要とは言えない。
         対面販売を通じて特定のブランドを宣伝させることは、特定のメーカーに取って有利であり、それによって満足する消費者もいる。
         販売時点とは別に(雑誌などで)情報提供をしても、販売時点での相談の代わりにはならないであろう。
         対面販売用のブランドが対面販売をしない別の店で安く売られていれば、次回から消費者はその店に向かうであろう。となれば対面販売のコストを回収できないので、どの流通業者も対面販売をやめるであろう。
         対面販売の小売店と、別ブランドや他社の製品を扱う小売店があって、それぞれ違うタイプの消費者が利用しているなら、両方が満足するように見える。しかし一方は、もう一方の顧客も手中に出来れば、規模の経済性を享受して単価を下げられるかも知れない。
      3.各段階での競争を制限することは、消費者・流通業者・メーカーのいずれに利益をもたらすか。消費者以外の主体に利益が生じる場合、その利益は消費者の金銭的・時間的犠牲を償うか。またその利益が消費者に移転することが期待できるか。
        例 ひとつの地域にひとつのチェーンが集中出店することを、ドミナント戦略という。
         ドミナント地域では、物流等の効率が良くなるので売上原価は下がると期待できる。しかし競争者は逆に、その地域にぽつんと出店しなければならないので効率が悪くなる。競争者がいないと、小売店は価格を高めに設定するかも知れない。
      4.全国一律に実施される政策が、一部の地域に趣旨からはずれた副作用をもたらしていないか。
        例 書店は返品の送料を負担する商慣行があるので、出版社が多く立地する東京では書店が多目になり、遠隔地では少な目になるひとつの原因となっている。確かに小売価格は再販制度のもとで全国一律であっても、書物に接する機会がそれによって全国一律に保証されているどころか、流通業者間の負担調整では地方に送料負担が掛かる仕組みになっている。
おわりに
     小規模小売店を保護するということは、端的に言って、小規模小売店を養うだけの金額を消費者から取る、と言うことである。(価格で取ることも税金で取って補助金を与えることもあるだろうが)それは消費者に取ってタダではありえない。
     大型店同士が火花を散らして競争している限り、消費者に取っての安い価格と確かな品質は保証されているはずであり、その影で中小業者がどれだけ泣いているかは問わない、というのが、ごく乱暴に言えば独禁法の論理であり、大店法規制緩和論者の論理である。すくなくとも小売店に付いては、大型店が出来て小型店がすべてつぶれてしまうわけではないし、生き残るための必要数の顧客を引きつけられなかった小売店を養うことは消費者の負担になるだけである。
     日本人は、おそらく消費者の大多数も含めて、こういう考え方には戸惑うであろう。自分はこういう考え方はしない、と思うであろう。しかし本当の意志決定は、地元商店街の誓願書に署名するときではなく、今日の買い物の行く先を決めるときに行われている。
     国鉄が民営化される直前、国鉄は赤字を減らそうと、職員の縁故をたどってもっと国鉄に乗ってもらう運動をした。しかしそうやって買ってもらった切符に特別な割引は何も付けなかったため、てっきり社員割引のように安くなるものと思いこんだ購入者と、間に立った職員にトラブルが多発したそうである。
     日本の戦後経済のある時期に、中小小売店が農家と並んで、余剰労働力を多く引き受け、社会の安定に貢献したことはおそらく事実である。しかし、復員軍人がちまたにあふれていた時代と、7,8人の弟妹を養うために外国人労働者が日本にやってくる超完全雇用時代では、中小小売店の営業・生活を保証することの必要性も正当性も異なってくる。
     日本は国際経済の大スタジアムにのしあがってしまった。日本人はもちろん、日本経済のローカルルールを定める権利を持っている。しかしそれは露骨な身びいきルールであってはならない。また、経済を通じてだけつながりのできる外国人にも理解できる簡明なルールでなければならない。
     今日も東南アジアのどこかで、子供たちが小学校にも行かずに、日本人の食べるエビの皮をむいているに違いない。皆さんはたまたまそういった子供たちのための募金活動を目にする機会があるかも知れない。しかし、真に偉大なわずかの人々を除けば、われわれ凡人にはその子供たちのことをいつまでも心にとめておくことは出来ない。それはクルド族難民やミャンマーの政治犯や旧ソビエトの食料不足や阪神・淡路大震災、その他諸々の話題にまぎれて、我々の視界からはずれてしまう。我々の注意力の総量は限られていて、注意を引くに値することだけを集めたとしても、我々の頭はすぐに一杯になってしまう。
     それでも子供たちは毎日エビの皮をむいているし、日本人は(あなたが、というわけではたぶんないだろうが)毎日エビを食べている。エビの皮むき代金を我々から彼らに送る、目に見えないルールが休みなく動いていると言うことである。日本での流通の仕組みが変われば、はるかかなたにいる子供たちの仕事が増えたり減ったり、あるいは内容が変わったりする。(日本人は尻尾の取れたエビをなぜ安くしか買わないのだろうか?)
     エビを食べるたびに、単純労働に駆り出される子供たちのことを思いやることは、たしかに大切なことではあるが、経済学を勉強しなくてもできる。それよりも経済学を学んでいる皆さんは、エビの価格はどうして決まるのだろう、と考えてもらいたい。発展途上国が日本から外貨を稼いでいくためには、どうやって付加価値をつけ、どうやって日本の流通業者と交渉すればよいのだろう。そのときに日本のどういうシステムが障害になるのだろう。
     経済の見えざる手は、おそろしく長く伸びて、おそろしく多くの人々を結んでいる。その手はごく単純な動作しかしないが、そうでなければこれほど多くの人々を結び付けることは出来なかっただろう。それにこの手は、冷たいいやな感触がする。しかしみなさんは、その冷たさに驚くところでとどまらないで、その手の動きを学んでもらいたい。その手になにができるかを知った上で、どう動かしたらよいか考えてもらいたい。中小小売店が活躍する方向も、子供たちが学校へ行けるようになる方法も、その中で見つけるしかないのである。

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