社会人院生の問題意識と「きちんと」の罠

出典: Hnami.net

 特定の人に特定のことをさせることを促す手段として、大学院で勉強しようとする人がよくいらっしゃいます。それはお勧めできません。

 大学院は「問題意識」を持って行くものだ、ということは、ほとんどの受験生の皆さんが(幸い)理解して下さっています。問題は、何が「問題意識」たり得るかです。

 例えば、社会が(政府が)特定の問題に「きちんと」取り組み、「適切な措置を」講じるべきだ、というのは立派な「問題意識」のように見えます。しかし一般に、「何々が重要である」というのは確かめようもない文章なので、科学的な文章の結論ではあり得ません。

 世間には、「偉い人」「有名な人」の言うことを、言っていることの根拠を確かめもせずに正しいこととして受け入れる人がたくさんいます。それを当てにして、あるいは軽い気持ちで、よく考えも確かめもしないことや専門外のことについて、さも科学的に検証したかのように語る人たちがいます。

 根拠を確かめず、結論だけを受け入れることは科学的な態度ではなく、受け入れるよう促すことも科学的な態度ではありません。

 市民としての意見、一定期間内に下さねばならない現場での判断は、学問の都合に拘わらず、常に存在します。それは仕方がありません。しかしだからといって、それがそのまま学問だとか、ましてや自分も「勉強」すれば他人に結論を押しつけられるようになるとか、そうしたことを考えていては、本当に物事を見る目を持った人たちから皆さんが軽く見られるばかりでなく、科学の力を損なってしまいます。一定の条件下で人が信じてくれるから、科学は科学でいられるのです。

 全てを疑い、慎重に信じてよいことを増やしてゆくのは科学の基本です。結論を仮定するような「問題意識」を持つことはお勧めできません。

 テーマとトピックスを区別しましょう。例えば「環境問題」が重要であることは議論の余地がないとしても、その特定の側面を捉えて、どんな小さな特殊例であれ、今まで誰も知らなかったことを見つける形に持ってゆかないと、学術文献の体裁が整いません。この場合、環境問題という「トピックス」を決めただけでは「問題意識を持った」ことになりません。それを「テーマ」にするためには、分析の仕方(方法論)をあらかじめ勉強し、結論の見当が付く(もちろん、実際にはやってみないとわかりません。わからないから研究するのです)ところまで慣れていないと、「テーマを持った」ことになりません。

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