論文の書き方・各論編

出典: Hnami.net

論文の書き方

はじめに

 この文章を私が書き始めてからもう5年近くなります。その間にこの文章は色々なところからリンクされるようになりました。しかし私の直面する問題は和らいだようには思えません。それはつまり、私の接する大学院生たちの問題が和らいでいないということでもあります。 (注:おそらく2003年ごろの文章)

 論文を書くプロセスがどんなものであるか、私はこの文章の旧版で説明しました。もちろん私は何人かの院生に、それに沿って指導をしました。残念ながら、私か危惧した通り、形式として論文にふさわしくないものを持った文章が修士論文として提出されることは止みませんでした。私はより直接的な指示を出す必要を感じ、「論文の書き方・実践編」をこのコーナーに加えました。

 残念ながらすべての悲劇を防ぐことは出来ていませんが、ともあれ実践編がすでにあるわけですから、実践編と各論編の役割分担を決めたほうがよいでしょう。実践編と各論編は基本的に同じテーマを追求する文章ですが、各論編は細かく、くどく、穏やかなトーンを持って書くことにしました。

 このWebページは、論文を抱える学生諸君の日々の生活を充実したものにする、という観点から、「論文の書き方」の様々な側面について広く浅く述べることを目指しています。論文の書き方については定評のある著書が多数ありますので、もともとこのページは書評を中心としてスタートしました。しかし私自身が論文指導上の経験から書き足した部分が大きくなり、次第に書評としての体裁に意味がなくなってきています。いずれ抜本的に書き改める必要があると感じていますが、私自身が様々な課題を抱える中での無料コンテンツ(笑)ですので無限に手間をかけるわけにも行きません。当面これでご勘弁ください。


目次

論文を書き始める前に

アメリカ式論文の書き方
ロン・フライ 東京図書 1500円

 この本の最も良いところは、「最終的に出来上がった論文の善し悪し」よりも、「論文を書く作業」に焦点を当てていることです。このWebページの主題にぴったりなので、この本から始めることにします。

 この本は電車の中でも軽く読める平易な文章で、読者を励まして論文を書かせるための一種の魅力を持っています。この本の著者がセールスマンなら、あなたは百科事典か美術全集を易々と買わされてしまうかもしれません。

 ただし、この本はアメリカの学部学生を念頭に置いているようです。この本の中で論文を書くために行われる、狭い意味での研究活動は、図書館で本を読むことにとどまっています。独自の調査、計算、統計処理といったものは含まれていませんから、みなさんは別のところでそれを学ばなければなりません。また、この本の著者が想定しているほど、日本の大学の図書館は整っていません。これについては、別の本を取り上げたときに検討したいと思います。


アウトラインで考えること

 レポートを書き始めるとき、いきなり本文を書き始めないよう、私は機会のある度に勧めています。まず短い文章で、全体の流れを自分自身に納得させてから、細かいところを書いていくようにしないと、全体として何を言っているのかわからない文章ができやすくなるからです。

 この本に描かれた論文作成作業のかなりの部分は、目次を作ることと、情報を書いたカードを並べ(変え)ることに費やされています。これは、並べ替える文章がごく短いものだからこそできることです。たとえワープロ原稿でも、大きな文章のかたまりを並べ替えると、文章の細かいところの前後関係がおかしくなるなど、何かしら面倒な作業が生まれるものです。

 カードは散逸しやすく、管理に手間のかかるものです。普通のノートにメモを書きなぐっては修正していく、昔ながらの方法でも、目次(構成)を考えることはできます。最も重要なのは、管理しきれる程度の少ない項目数と短い項目内容で、全体の構成を考えるということです。

 気がついたら目次が20行を超えていたときは、どうすればよいのでしょう。ふたつの可能性があります。ひとつは、あなたの抱えているテーマの幅が広すぎて、ひとつの論文に収めるにはふさわしくないときです。最初は適切に絞り込んでいたつもりでも、論文を書き始めるとあれもこれも思い付いて、捨てるのが惜しくて、まとまりがなくなってしまうことはよくあります。このときは、とりあえず目標を絞り込んで、漏れた項目を当面の目次から切り捨てなければいけません。このことについては、(2)で詳しく述べることにします。

 もうひとつの可能性は、あなたが目次を書いているうちに、項目の細部に立ち入ってしまっていることです。目次は階層化することができます。言い換えれば、ひとつの大項目を、その下の階層でさらに小項目に分解することにすれば、大項目の数を増やさずにすみます。


大きいことは良くないことだ

 大きいテーマが良いテーマであり、一生を費やすに足るテーマだ、と頭から信じ込んでいる大学院の志願者は、後を絶ちません。これは間違っています。

 法科大学院などの専門職大学院を除くと、日本の国立大学においては、修士課程は修士論文を書くところです。このことを志願者はみんなわかっています。わかっていないのは、修士課程は2年間で修士論文を書くところだ、ということです。

 修士論文は学術論文として、いくらかの新奇性を求められます。誰も知らないことを見つけなければならない、ということです。それも、他の人がすでに見つけたことを理解し、理解したことを示した上で、です。大きな問題を理解し、新しい角度を見つけるためには、小さな問題より多くのものを読み、理解し、まとめなければなりません。その上で、他の人がさんざん挑戦したところから、他の人がまだ誰も通っていない道を探さなければなりません。そんなことは一生かかってやればいいことであって、最初の2年間ですべて終える必要はありません。無用のリスクです。

 修士論文のテーマは、たいていごくごくささやかなものです。そのささやかな部分で、まず世界一になることを目指さなければなりません。世界一? そうです。新奇性の要求というのはまさにそれなのです。世界中の誰も知らないことを見つけるのが新奇性なのです。だからテーマは小さくないといけないのです。

 研究が進んでいくと、最初は単純だと思ったものの様々な側面が見えてきます。すべてが関連しているように見えますが、実際そうなのです。すべては関連しています。論文のテーマが肥大化しかかる、危険な瞬間です。その数ある側面の中から、どの関係に注目するかを勝手に選んで、それが重要であることを一生懸命論文で主張しなければなりません。

 例えば「財政問題」よりも「昭和40年代における建設国債の需要誘発効果」のほうが絞り込まれたテーマです。絞り込まれたテーマを持っていること、言い換えれば「問題意識が明確である」ことは、どれもこれも重要に見える側面からいちばん重要な側面、言い換えればいちばん書きたいことを選び取ることに役立ちます。

 もうひとつ気づいて欲しいことがあります。「建設国債とはなにか」「建設国債はいつから発行されるようになったか」という知識がないと、「昭和40年代における建設国債の」ことについての問題意識など、持ちようがないということです。「何を質問していいかわからないくらい、わからない」という経験は誰にでもあるでしょう。ある事柄について知っていればいるほど、細かい問題意識を持つことができます。その分野について予備知識を積まないと、とっかかりの問題意識を持つことすらできない、ということなのです。


題材と論旨(命題)を分けること

 学期末のレポート課題でよくある形式に、「…について述べなさい」というものがあります。貨幣制度について述べなさい、ウォーターゲート事件について述べなさい、といった出題の場合、貨幣制度、ウォーターゲート事件といった題材が示されているだけです。この題材を、受講者はどのようにでも料理できます。例えば金本位制への回帰を唱えようと、都道府県の域内通貨発行権を認めた場合の帰結を論じようと、それは貨幣制度について論じていることには違いありません。

 これらのレポートの論旨が「金本位制は管理通貨制度よりも望ましい」「都道府県は通貨発行自主権を持つことが望ましい」であったとします。悪い(しかしよくある)レポートの典型は、講義ノートの要約で紙数の大半を使った末、「ところで」と言わんばかりに結論だけがポツリと書いてある、というものです。よいレポートは少なくとも、紙数の大半を、結論を支持するに至った比較や分析が占めるものであるべきです。

 かなり勉強している人でも、いや、勉強している人ほど書いてしまいがちなレポートは、「題材があって論旨がない」レポートです。貨幣制度について知っていること、調べたことを事細かに書き込んで、文章の最後に来てはたと困ってしまうのです。

「アメリカ式論文の書き方」は、幸いこの点を適切に強調しています。論旨がないと、材料を集め、整理する際の方針が立ちません。しかしその論旨が正しいかどうかは、材料を集めてみないと分からないのです。また、集まった材料の制約から、適否の判断のできる論旨が限られてしまうことも十分にありえます。(全企業の細かい原価データが手に入るものなら、ずいぶん多くの経済問題の研究が飛躍的に進むことでしょう)「アメリカ式論文の書き方」は、暫定的な論旨を持って、それを適宜見直してゆくべきだと言っています。

 先ほど、知識がないと問題意識すら持てない、と述べました。調べて知ることと、問題を定義し直すことを交互に繰り返して、研究は進んでいきます。このことについては、あとで詳しく述べます。

 さて、科学的な論文の論旨となりうる短文と、そうでない短文は、どこが違うのでしょうか。

 論文の論旨は、真偽の判断できる文章、つまり命題であるべきです。科学的な分析とは、真偽を判断する手続きだといっても過言ではないでしょう。証明されていない、あるいはこれから証明の手続きにかかる命題は、しばしば仮説と呼ばれます。

 社会科学において、ある命題が常に成り立つという証拠を挙げることは、ほとんどの場合不可能です。この点については(どちらかというと、他の分野での論争に経済学者が巻き込まれる形で)長い論争の歴史がありますが、私も含めて多くの学者は、「実証不可能な命題であっても、反証可能な命題であれば、科学的な議論にふさわしい」と考えています。例えば「国債の中央銀行引き受けはインフレを激化させる」という命題は、中央銀行の意思決定の機会すべてについて実証することは明らかに不可能ですが、インフレにつながらなかった実例がひとつあれば反証可能です。

 漠然とした題材の中から、反証可能な部分を抜き出してくることは、分析作業そのものと同じくらい困難で、重要な作業です。繰り返しますが、調べて知ることと、問題を定義し直すことを交互に繰り返して、研究は進んでいきます。問題を定義できないまま、そのテーマについて知られていることを漫然と漁り回る段階も、研究にはあります。その中で、問題が問題として形になってゆくのです。


論文を書く準備の勉強とは

 高度な勉強は大学院へ入ってからすればいいのだ、と考えている志願者にもよく出会います。すべての時間を勉強に使える立場の人なら、それもいいでしょう。しかし社会人の場合、高度な勉強をしながら修士論文を書くことには限界があります。短期間では思うような実力がつかず、結局のところ、入学時点で持っている知識と能力で論文を仕上げることになるケースのほうが普通です。

 問題を立て、分析することが研究の両輪であるなら、最後にはその両方である水準に達しなければなりません。逆に言えば、両方合計してどれだけ準備が進んでいるかが、修士課程に入ってから2年間で論文が仕上がる確率を左右します。

 例えば「経済学には数学が要ると聞いている」人は多いでしょう。では、どういう数学の勉強をしたら良いのでしょう。微積分? 線型代数? 差分方程式? 全部?

「経済学に必要な数学は?」と問われれば、その答えは「全部。」です。こんな不毛な答えが出てくるのは、「経済学に必要な数学は?」という問いが曖昧すぎるからです。あるタイプの問題には、あるタイプの数学のみが使われます。経済学の教科書によく出てくる問題に対応する数学を集めたものが経済数学と呼ばれていますが、ふつう経済数学には含まれない数学を使う分野はたくさんあります。研究者レベルでは、新しい数学が開拓されると、それを経済学に応用しようとする動きが必ず起こります。これらは学術雑誌の中にとどまってなかなか書籍にならず、ましてや日本語に訳されることはほとんどありませんから、本格的な勉強をしない人の目に触れないだけです。

 話が脱線しました。先ほど「昭和40年代における建設国債の需要誘発効果」の例でも述べたように、知識があればテーマを絞り込むことができます。逆に、テーマが明確であればあるほど、それを手がかりに勉強する分野を絞り込むことができるのです。例えば金融工学においてよく使われるブラックとショールズの確率微分方程式を理解するだけでよいのなら、微分方程式に関する一般論すべてを勉強する必要はありません。問題を立てることは、勉強の方針を立てることです。

 あなたが興味を持っている対象が何であれ、修士課程に進む前に、それについて知られていることをできる限り頭に入れて、何を明らかにしようとするのか考えてみることをおすすめします。

 いきなりこんなことを言われても難しいでしょうね。逆に、「その分野ですでに明らかになっていることは何か」と考えてみるのも良いでしょう。関連する書籍で周知のように取り扱われていることも、調べてみるとはっきりした証拠がない、ということはよくあります。なぜ証拠がないのか、と考えてみます。

 解けない問題を選ばない、ということは、修士論文を期限内に完成させるために重要なことです。例えば大手小売店が受け取るリベートの金額とか、日本における談合の最新動向とかいったテーマを選んだとしたら、資料が集まって来ないのは当然です。みんなそう思っているが具体的なデータがないテーマは後回しにして、修士論文では別のテーマを選んだほうが得策です。

 自分の使っていた言葉(概念)が曖昧であったことに気づく、というのもよくあることです。例えば「円高と価格破壊」をテーマに選んだとします。価格破壊が起こったかどうかを、消費者物価指数が下がったかどうかで確かめようとしたとします。1995年を100とする消費者物価指数(全国)は、プラザ合意のあった1985年には87.8、1990年には94.3でした。つまり消費者物価指数は1985年から1995年まで、緩やかに上昇を続けていたわけです。では「価格破壊はなかった」と結論すべきでしょうか? もちろんそうではありません。すべての品目が同じように円高の影響をこうむったわけではないし、消費者物価指数の元になる調査はいくつかの点で、輸入品の安売りによる物価への影響を反映しにくいようにできています。それ以前の問題として、「価格破壊」が何を指して、何を指さないのか、考え直す必要があるでしょう。当時の風潮として、割安感を強調したいと考える企業はみな自分の価格設定が「価格破壊」だと宣伝する傾向がありました。

 こうした試行錯誤に、修士課程に進んでからの貴重な時間を費やしていたら、それだけスケジュールが遅れてしまいます。勉強し、考えるというステップを往復しているほど、入ってからの作業は楽になります。


コダワリ

 最近は社会人向けの大学院も増えてきました。選り好みさえしなければ、どこかへは入れるでしょう。ただ修士課程に入って幸せになれるかというと、それはまた別です。

 頭が良すぎて、何にでもすぐ納得してしまう人もいます。そういう人はかえって問題の見つけ方に苦労するかもしれません。先生の言うことを忠実に聞くばかりで、自分の考えを述べる思い切りが足らない人も、同様です。頭が良ければいいかと言うと、確かにそれは重要ですが、それが決定的な要素ではありません。

 私は、修士以上の大学院が合う人と合わない人の決定的な差は、性格だと思っています。物事へのコダワリが、強いかどうかです。

 大学院の勉強は、今日でも基本的に、狭くて深いものです。それが面白いと思えるかどうか。結果が少しずつ出てきて、うまくいかないことも少しずつ出てきて、時々興奮するような進展があって、気の遠くなるような単調な繰り返しもあって。そういう生活にやりがいを見つけられるかどうか。

 大きすぎるテーマはいけないと述べましたが、修士論文の結論はたいていの場合、たいした結論ではありません。それをカッチリと正当化する手続き(方法論)が重要なのです。それに至るプロセスを、スポーツのように苦しみつつ楽しめるかどうか。これはもう技量ではなく、性格だと思うのです。


勉強のしかた

文献を探すための本
斎藤孝・佐野眞・甲斐静子 日本エディタースクール出版部 1500円

 この本は良い本です。内容は表題通りであり、適切に絞り込まれています。そこで文献の探しかたについての一般論はこの本に譲って、ここでは近代経済学に関する情報ソースについて述べます。


統計資料

 多少なりとも統計数値を扱う経済学者は、その専門分野に関わる統計の所在と、それぞれの数字の特徴(例えば、全数調査かサンプル調査か、調査頻度はどれくらいか、企業統計か事業所統計か)を知っています。しかし社会人院生の皆さんのテーマは、厳密に言えばスタッフの誰も専門とはいえないものも多いので、一から調べなければいけないケースも多いでしょう。

 統計調査年報(日本銀行)、日本国勢図会などいくつかの逐次刊行物は、いろいろな情報源から、様々な経済問題についての統計を集めて編集されています。情報源は明記してあるので、より詳しい数字や、別の集計区分での数字を探す手がかりになります。内閣府統計局政府統計公表・提供状況(府省別)などはよい出発点になるでしょう。

 数字が手に入ってもそこで安心しないで、その資料の先頭や末尾にある用語の定義や母集団についての説明を注意深く読んでください。例えば賃金・給与に関する数字なら、それが残業手当などの基準外賃金を含んでいるかどうか、また賞与を含んでいるかどうかを確かめる必要があります。この点が不揃いな数字を比較して結論を導くのは危険です。国際比較が一般に難しい研究テーマとなる大きな理由がここにあります。

 経済学的に非常に重要で興味深いテーマであるにも関わらず、資料が手に入らないために研究が進まないことはよくあります。資料の入手難に直面したときは、違った角度から題材を再吟味して、別の論旨を選ぶことを余儀なくされるかもしれません。時間は限られていることをお忘れなく。


学術文献

 次に、過去の研究(先行文献)の探し方です。最も基本的なのは、先行文献をひとつだけ見つけて(紹介してもらって)、あとはイモヅル式にそれぞれの末尾や脚注にある文献をたどってゆく方法です。一般に、ひとつの文献を見つけて、自分が重要だと思う個所を見つけたときは、その根拠として参照されている文献を自分で探して読むことは研究上の常識です。指導教員から指摘されるのを待っていてはいけません。

 参照文献の表記法には、分野によって独特のものがあり、覚えるしかないものもあります。例えば経済学の参照文献でA.E.R.とあったらそれはAmerican Economic Reviewのことです。

 考えている題材があるが最初の基本文献が見つからないときは、その分野の概観論文(サーベイ論文)を探します。サーベイ論文は普通の学術雑誌に載っていることもありますが、闇雲に探してもなかなか見つかりません。

 いくつかの書籍は、書籍全体がサーベイ論文で占められています。代表的なのは、Handbookシリーズと呼ばれるElsevier(North-Holland)社のシリーズです。この書名が必ず「Handbook of・・・」で始まるシリーズは数十冊が発行されており、各章がひとつのテーマに関する、一流の著者によるサーベイ論文です。このシリーズは役に立ちますが、非常に高価な本ですから、実物を見る以前に注文するのは避けた方が良いでしょう。また、埼玉大学付属図書館には開架分と書庫保管分をあわせ、このシリーズのほとんどが揃っています。

 Journal of Economic Literatureという雑誌も紹介しておきましょう。この雑誌は書評のほか、毎号1本のサーベイ論文を載せています。

 英文雑誌論文のオンライン/CD-ROM検索システムとして有名なものにEconLitがあります。

 論文を書き始める人のほとんどは、「どこから手をつけてよいかわからない」状態から出発します。これに対して(他人事なら傍目八目で)すぐに思い付くのは、「資料室や図書館をでたらめにきょろきょろ歩き回ってみる」という対策です。この方法に多くを頼ることはできないとしても、先入観を持たずに広く資料を漁ることは重要です。整理された情報しか処理できないのでは、実際の経済に近いところで研究する人ほど、ひどく狭い範囲でしか活動できなくなります。雑然とした情報の洪水を冷静に見つめて、引き出せるだけの情報を引き出す能力は、技術というより人の性格といった面があって、カリキュラムを整えて伸ばすことは困難です。しかしそれは、プロとしての重要な武器であることには変わりないのです。

 もしあなたが、こうしたあてどもない探索を「恐れて」いると自分で感じるなら、それを克服することは後々きっと価値の出る投資になります。本当に世の中で必要とされるのは、誰も見たこともない問題に対処できる力です。そうした対処は、あてどもない試行錯誤の繰り返しになるはずです。

科学的な文章

理科系の作文技術
木下是雄 中公新書 720円

 いよいよ「いい文章悪い文章」について触れた本を取り上げることにします。この種の本はいろいろな分野のいろいろな学者が書いていますが、その研究分野の特徴をある程度引きずる傾向があります。この本は、物理学者が書いたものであり、簡単明瞭に意を通ずる文章が最も良い論文向きの文章である、という一貫した考えに立って書かれています。

 校正記号の解説など実務的な情報も含まれていて、お買い得の一冊です。


事実と意見

 この本の第7章「事実と意見」は特に論文執筆前に(テーマを決める前に)読んでおくことをお勧めします。論文の中で客観的な事実と主観的な意見がどういう関係にあるべきかが、簡明に述べられています。

 この文章の「アメリカ式論文の書き方」を取り上げた個所で、私は「題材があって論旨がない」論文について述べました。このタイプの論文は、しばしば、意見を含まずに事実だけを並べた文章になります。これはもちろん良くない論文で、レポート指導でよく私たちは「自分の意見を交えて書け」と指導します。

 しかし一方で、「事実をして語らしめる」というのはジャーナリズムや歴史学文献で古くからある説得の手法です。事実だけが語られていたとしても、その配列や相対的な強調によって、読者がある意見(印象)を持つように説得することはできます。実際、読者が作者個人の意見を押し付けられたように感じないで済むので、この技法は有効です。

 科学的な論文は、これ(だけ)ではいけないと思います。「事実をして語らしめる」文章では、作者の意図はむしろ隠されています。科学的な論文の論旨は、明示されなければなりません。

 「論旨」は、先に述べたように、実証的な経済学の論文ではほとんどの場合、厳密には実証不可能です。ですから論旨は、事実というより意見なのです。この意見を支持する事実、この意見を否定する事実を集めて検討するのが科学的な分析のパターンといってよいでしょう。つまり、意見の全くない論文は良くない論文であるけれども、論文の大部分は論旨に関連する事実が占めるのがよい、というのが私の意見であり、この本の著者の意見でもあるようです。


ものは言いよう

 科学の力は、多くの人に認められた一定の手続きに従うことによって、自分の主張を受け入れてもらうところにあります。単に偉い人が(多くの場合、偉そうに見える人が)言ったことを盲目的に受け売りする人は世の中に残念ながらたくさんいますが、そういう人は科学的手続きそのものを理解していないか、少なくとも無視しています。あなたが科学的な文章を書くことによって、仮に一時的にそういう人たちを説得することができても、すぐに別のあなたより偉そうに見える人がやってきて、聴衆を奪い返してしまうでしょう。私たち大学人が、自分で科学研究をするかたわら、科学的なものの考え方を受け入れられる人を教育して増やさないといけないのは、そのためです。

 何らかの問題や活動が社会的に(経済的に、道義的に)重要であることを主張する論文を書こうとする志願者を時々見かけます。「何々は重要である」ことを立証、あるいは反証することはできるでしょうか。そのままでは、困難です。ということは、そんな研究も論文として完成する見込みがない、と言うことになります。「(在原)業平はその心あまりてことば足らず」(紀貫之、古今和歌集仮名序)というのは芸術ではよろしいでしょうが、学術研究の枠内での評価にはつながりません。

 実際には、多くの学者は自分の扱う問題について、何らかの社会的、経済的、道義的な理想を持っていますし、論文の中で軽くそれに触れることもあります。しかし科学は科学ですから、冷静な分析結果と願望をいっしょにしてはいけません。根拠のないことを、さも根拠があるかのように断定的に語るのは、いくら理想に燃えた行動であっても、科学的な態度ではありません。

 それ自身は科学的に取り扱えない問題を少し変形すれば、科学的な議論に堪えることもよくあります。例えばアメリカではレーガン政権以降、所得税の累進性が緩和され、高所得者の税負担が軽くなりました。これは累進税制が高い能力を持つ高所得者の労働意欲をそぎ、労働供給を減少させる効果を重く見た政策です。もちろんこれを「金持ち優遇」だと直接非難する人々もいましたが、「本当に累進税率の緩和は高所得者の労働供給を増加させるのか」を実証的に研究しようとする人々もいたと聞きます。

 科学には立ち入れない重要なことは、世界にたくさんあります。科学の力を引き出したいと思うなら、科学には科学本来の姿と役割を与え、TPOを選んで使わなければなりません。

概念規定の大切さ

 大学院生がよく指導教員から怒られる種になるのは、論文の中でひとつの言葉に複数の意味を与えることです。先ほど「価格破壊」の意味が実は曖昧であると述べましたが、日常私たちはひとつひとつの言葉を、さほど意味も考えないで使っています。クルマという表現はある文脈では自動車全般のことであり、「クルマ呼んで」という表現ではタクシーを指し、「車つき」という表現はよく椅子などの車輪に使われます。

 学術文献では、これはしばしば困った問題を引き起こします。「価格破壊」について研究していくと、特定の意味での「価格破壊」とそれ以外の「価格破壊」を分けて考えなければならなくなります。どんな研究にも多かれ少なかれ分類や場合分けが含まれます。ひとつひとつの文章で、ひとつひとつの言葉の意味がはっきりしていないと、すぐに文章の意味がわからなくなってくるのです。

 修士論文が合格するまでには、中間発表を含め、何度も教員や学生と議論する機会があります。論文を読む人の頭にも、それぞれの言葉のイメージがあるはずです。それと食い違った意味で、説明もなしに言葉を使っていると、論文を理解してもらえませんし、討論の時間を有効に使うこともできなくなります。

 ひとつの言葉はひとつの意味だけで使うようにして、似た言葉は区別を明確にしなければなりません。重要な言葉については、この論文ではこのような意味に使う、と明記しておくのもよいでしょう。


研究の日々

作業仮説を立てよう

 <練習>ある題材について、いくつか作業仮説を立ててみましょう。そしてそのそれぞれについて、それを支持する事実、それに反する事実をふたつずつ挙げてみましょう。ただしそれらの事実には、「自分は見たことがないがどこかでデータが手に入るはず」な事実を含めるようにしましょう。

(例)題材 裁量的経済政策の今日的意義
作業仮説 ケインズ流の経済政策は無効である。


 作業仮説を支持する事実として、「政府支出は景気を十分に刺激できないので、財政赤字が累積する」を挙げたくなるところです。ところが、財政赤字(単年度の財政赤字、および国債発行残高)のデータは取れるとしても、それと「政府支出」の関係はどう考えたら良いのでしょう。ある年の支出は、次の年以降の税収をいくらかは増やしているでしょう。とすると次の年の財政赤字は、前年度の財政政策の効果を考えると、見かけより大きいと考えなければなりません。もし前年度の積極的な政策がなければ、税収はもっと落ち込み、単年度の財政赤字はもっと拡大していたことでしょう。

 どうやら複雑な因果関係に踏み込んでしまったようです。こうした問題は、明示的にモデルを考えることで整理できますが、少なくとも作業仮説と事実の対応関係は、見かけほど自明ではなさそうです。

 また、ふつう財政赤字というときは国債(発行残高)だけを考えますが、景気浮揚のための政策を総合的に捉えるとすれば、地方の借金である地方債を見落とすことは適切ではないでしょう。国の補助金とタイアップした事業の経費を賄うために発行された地方債は、国の隠れた借金ともいえます。問題にあわせて、とらえるべき事実の範囲は異なってきます。

 ケインズ政策の無効性を主張する人々の見解を支持するデータや観察(事件など)があれば、作業仮説を支持するものといえるでしょう。例えば合理的期待形成学派は、「民間はケインズ流の赤字財政による有効需要増大に対して、将来の増税を予測するから消費を増やさず、単にクラウディングアウトが起こるにすぎない」と主張します。したがって、減税や公共事業計画発表の後、消費者に消費計画についてアンケートを取れば、作業仮説を支持、または否定する事実が得られます。

 作業仮説を支持しない理由は、複数考えられるかもしれません。ミルトン・フリードマンに代表される1960年代までのマネタリストは合理的期待形成学派と違って、経済政策の短期的な有効性を認めた上で、長期的にはやはり無効であると主張していました。こうした場合、「どの仮説が最も支持されるか」といった論文の構成が考えられます。ある仮説を論旨に選んだ場合、それに反する対立仮説をうまく見つけることが、面白い論文を書くための重要な鍵になります。いくら正しい仮説を論旨としていても、「そんなことは当たり前ではないか」と読者に思わせては失敗です。

 ところで、「昔はケインズ政策が有効であった」ことの証拠はどのように挙げればよいでしょうか。昔は財政赤字問題が今ほど深刻ではなかった、では困ります。財政赤字をもたらす要因は他にも考えられるからです。

 ここは、モデルが必要とされます。ケインズ政策が有効であった場合と無効であった場合で、観察される経済変数間の関係を全部考慮に入れると、トータルでどの変数にどういう差が生じるのかを調べるのです。例えば今年度の消費支出は、前年度の消費支出とも、今年度の所得とも相関関係がありそうです。しかしもしケインズ政策が少なくとも短期的に有効なら、前年度の消費支出だけではなく、今年度の所得も今年度の支出に独自の影響力を持っているはずです。Robert Hallが1980年に発表したこの研究の結果については、マクロ経済学の教科書を調べて見てください。


悪夢の方程式

 私が1996年に書いた旧版のこの項は、ここで終わっています。しかしこの項が要求していることは大学院生、特に社会人院生にとっては目新しく、難しいもののようです。ここがクリアできないと、論文が論文としての形式を取れないことになります。

 学部のレポートの場合、レポート全体の整合性についてとやかく言われることは、比較的まれです。しかし修士論文レベルになると、「全体として話の筋が通っていない」という評価は決定的な響きがあって、他にどんな美点があっても帳消しになってしまいます。修士論文は特にそうですが、論文は研究報告書でもあります。研究報告に筋が通っていないと言うことは、行き当たりばったりの無計画な研究をした、ということにもなるのです。研究に試行錯誤はつきものですが、それを乗り越えて一定の結論を得た、やってきたこと全体にひとつの解釈の筋を通した、という体裁を論文に与えないといけません。

「題材と論旨(命題)を分けること」でも述べたように、社会人学生が大学院に持ち込んで来るのは題材(テーマ)であって、そのままでは論文の体裁を整えられないのが普通です。その中から論旨をつむぎだして行かなければならないわけです。ここで、ふたつの「悪夢の方程式」のどちらかにはまり込んでしまうと、厄介なことになります。

<悪夢の第一方程式>
論旨が見つからない+テーマに関連する文献・資料が多い→勉強の優先順位がつかない
<悪夢の第二方程式>
論旨が見つからない+資料や先行文献がどんどんたまる→整理の方針が立たない

 ふたつの方程式は呼応して、事態を悪化させます。つまり「勉強の優先順位がつかない→資料や先行文献がどんどんたまる」というチャンネルや、「整理の方針が立たない→テーマに関連する文献が未処理のまま積み上がる」というチャンネルが働いて、らせんを描くように状況がだんだんコントロールできなくなって行きます。最悪の場合、「悪夢の最終方程式」が発動します。

<悪夢の最終方程式>
勉強も進まない+整理も進まない→報告することがない→指導教員と顔が合わせづらい

 悪循環を断ち切るためには、「小さなことからまず実行」が有効であり、必要です。つまり、

<勉強・整理の方針が立たないことの回避>
特定の、なるべく体系的な文献・資料をひとつ読む
いろいろな資料・文献をざっと浅く読む→自分のやっていることを文脈に位置付ける
<論旨が見つからないことの回避>
嘘だと思っても、その題材について、何か言い切ってみる

 といったことが対策になります。それぞれについて簡単に説明しておきましょう。

「教科書マニア」とでも言うべき症状に陥る大学院生がいます。自分は基礎力がないから教科書Aを読もう。いやしかしわからないところがあるから教科書Bも読もう。いやいや教科書Cも最近評判だと聞いている。こうやって、研究の初期段階で堂堂巡りに陥るのです。特に社会人の場合、大学院に入ってから基礎力をつけて、それを基礎にして修士論文を書こうなどと考えていたら、とても2年間では収まりません。入ったときの基礎力で何とか形にすることを考えて、もし可能ならば高度な技法で彩りを添える、くらいの気持ちでいたほうが実際的です。

 もう一方の極端に近い過ちは、最初に出会った論文を丁寧に読みすぎることです。論文をわかるまで読むことは大切ですが、基礎力や文脈への理解不足などで、どうしてもわからないところは残るものですし、限られた時間の使い方として限度を超えた精読は好ましくありません。他の文献とバランスよく読むことが大切ですが、これはそう簡単なことではありません。その分野で基本とされる文献があるなら、それをひととおり読んで行くのが常道です。そうしたものがないときは、誤解をそのままにするのを承知で論文のアブストラクト(要約)だけを多く読んだり、思い切って初学者向けの教科書を多くの分野にまたがって乱読したりすることも致し方ないでしょう。その結果を指導教員に説明して行くうちに、自分の頭も整理されて行くし、指導教員も適切な指示を考えることができます。最初に読む論文はその分野や題材にとって最も重要なものとは限りません。脈絡のない論文を数本読んだことがあるだけでは、それで論文を支えることができないのは明らかですから、そうならないようにしないといけません。

 研究にはたいてい、流れがあります。Aさんがある成果を発表すると、Bさんがその成果を補足したり、時には否定したりします。それにまたAさんが、あるいは別のCさんが反論します。こうした研究のカタマリのことを文脈(コンテクスト)といいます。社会人院生の持ち込むテーマはたいていピタリと当てはまる文脈がないのですが、それでも近い文脈を探すと、問題を処理する方法を学ぶために大変役に立ちます。有り体に言えば、学術論文らしい文章の体裁を、そこから学ぶことができます。

 これでできあがり、と思って指導教官に論文を持って行ったら、それまで寡黙だった指導教官が突然口を開いて、ああだこうだ具体的な指示を出し始めた、という経験をした大学院生は多いと思います。曖昧な研究計画、曖昧な作業報告に対しては、指導教員も曖昧なことしか言えないのです。結論の候補としてなにか命題を挙げただけでも、指導はずっとしやすくなります。否定命題も命題ですから、そこからその真偽を確かめる作業計画を立てることができれば、悪循環から逃れて生産的なプロセスに入れる見込みがぐっと増すのです。


説得技法

 結論を守るといっても、どう守ったらいいのでしょう。どうすれば守ったことになるのでしょう。数学の証明のように一定のルールが決まっている分野もありますが、たいていの場合、結論が守れているかどうかの判断には曖昧な部分があって、「よく書けている」などといった曖昧な表現でそうした部分への判断が下されます。ここではそうしたルール化しにくい部分に少しでも食い込むために、論理的な文章によく出てくる表現・説得の方法を思いつくままに挙げてみます。

 漏れなく数え上げることを特に「類別する」と言います。論文で場合分けをする場合、すべての場合を取り上げているかどうかで印象が違ってきます。例えば「aが4以上の場合は…そして2以下の場合は…」といった話の流れだと、aが2以上4以下の場合については何も言っていないことになります。本当に例がふたつしか知られていないこともあるかもしれません。その場合は仕方ありませんが、きちんとケースを類別した言い方になっていると緻密にものを考えているように見えますし、なっていないと思いつくままに例を挙げたように見えます。

「数値Aの大きさとBの大きさには関係がある」という場合、グラフ(散布図)にすると右上がり、あるいは右下がりの関係が見られるはずです。右上がり・右下がりの関係がある(有意な関係がある、相関がある)か、ほとんど関係ないかを判断するための基準は、統計学の本によく載っています。ただし結局は、厳しい基準を取るか緩い基準を取るかは人間が恣意的に選ぶことになるので、理屈の力だけで結論をただひとつに絞ることはできないのですが。

 符号条件を満たすかどうか確認することは、単純ですが応用範囲の広い作業です。例えば先ほど「価格破壊」の起こったはずの期間に、消費者物価は(下落するはずが)上昇していたことを指摘しました。数値Aが大きくなると数値Bは大きくなるはずなのに小さくなるなど、増加・減少の関係が予想と逆になることを「符号条件を満たさない」と表現します。わずかな統計数字しか手に入らなくても、こうした分析なら可能です。

 増加・減少の傾向が見られるとき、その内訳を見て、主に増加・減少しているのは何か見てみるのも、問題を掘り下げるのに有効です。

 相関関係と因果関係は同一視してはいけません。例えば学園祭の期間中の降雨量と模擬店の売上には負の相関がある(一方が大きい年は、もう一方は小さい傾向がある)はずです。これは雨が降るとお客が少なくなるのであって、たこ焼きが売れないことが雨雲を呼び寄せているわけではありません。

細分化はほどほどに

 <練習>あなたが修士(卒業)論文を書くところを想像して下さい。あなたの前にはワープロまたはパソコンまたは原稿用紙があります。あなたは、論文を書くための資料を…どこから取り出しますか? イメージして見てください。それは使いやすい取り出し場所ですか? 資料はどういう基準で整理されていますか?


 アウトラインで考えることが重要である、という私のアドバイスは既に述べました。それを守ったあなたをイメージしたとすれば、あなたの手元には、ある程度階層化された、論文の目次があるはずです。では、次にどこから手をつけたらよいのでしょう?

 このコラムですでに取り上げた本を含めて、多くの本で、情報整理のためにカードを活用することが勧められています。カードは、確かに便利なものです。しかしカードを目の前に並べて、論文が書けるでしょうか?

 深みよりもわかりやすさを優先する文章であれば、あるいはすでに多くの文献が頭の中に入っている書き手であれば、可能でしょう。そのような場合、カードに盛られた情報は、そこから直接文章を書き起こせるだけの具体的なものです。大学の教員には、キーワードだけを書いたメモを持って講義に行く人がいます。メモには「無差別曲線 不飽和の仮定 限界効用逓減」とだけ書いてあったとしても、教員は講義で何を話すべきか、ちゃんとイメージできるのです。

 しかし、修士論文や卒業論文では、初めて論文を書く分野なのにもかかわらず、ある程度の分析の深みを要求されます。この場合には、なにか中間段階が必要です。

 理論モデルの計算であれ、統計操作であれ、実行段階というのは必ずあります。この実行段階は、試行錯誤を含んだひとつの流れです。結果的には思うような結果が出ず、論文に盛り込めなかったとしても、途中経過を省略なく記録して置くことが役に立ちます。ここは、カードでもレポート用紙でもルーズリーフでもなく、昔ながらのノートを使うことが有効です。カードの検索キーワードを考える手間も不要ですし、散逸の危険もありません。

 では、歴史の論文は直接カードにしたほうがよいのでしょうか? 私はいろいろな産業の流通を広く浅く扱っていますから、経営史に関する社史などを読む必要も生じます。こうした場合、基本的な文献や、自分の知識の少ない文献については、まずノートをとりながら1冊を読み切ります。ノートには重要だと思える個所がいくつかありますから、ここからカードを作ります。(ノートに正確な引用をすることと、ページ数をあわせて記録することが非常に重要です)

 検索システムを作るには、その分野に対するかなりの知識が必要です。特定の資料だけで使われている用語をキーワードに選んでしまったら、ひどく検索効率は下がってしまうでしょう。資料整理はそれ自身、あなたの貴重な時間を食うのですから、最も手間のかかる整理システムは最も効果の見込めるところにだけ投入すべきです。

 さて、資料整理の下位のほうに、ノートを使う階層がひとつできました。ではこのノートを参照しながら論文を書けばよいのでしょうか?

 私は、ノートをさらに2段階に分けています。先ほどまで述べたようなノートを作業ノートと呼ぶことにすると、その上に管理ノートを用意して、主に管理ノートを見ながら論文を書くことにしています。

 管理ノートは、主に作業仮説をめぐる操作を扱います。作業の結果ある仮説がどうやら否定されたとすると、次の仮説を用意するか、別の検証作業を企画しなければなりません。こうした検討が作業記録のあちこちに埋もれてしまうと、ひどく能率が低下します。ただこの段階はそれほど長くならないと期待されますから、ノートでなくルーズリーフやクリアーファイルの利用も考えられます。

 また、私は研究資料を整理するカードシステムを使っていません。断片的な情報はポストイットに書き込んで、最後には作業ノートに貼り込んでしまいます。「どこを探せばいいか」がある程度絞り込めれば、めったに起こらない再検索のための用意としては十分であると考えるからです。

 細かいところは読み飛ばしても差し支えありません。ここで言いたかった最も重要なことは、あなたが論文を書く作業に最も密着した情報の整理が、最もよい情報の整理方針だ、ということです。見た目がきれいでかっこいい情報整理にみだりに手を出すべきではありません。特に、あなたがパソコンを普段から活用しているのでなければ、パソコンを活用した情報整理は避けた方が良いでしょう。


作業に目盛りを振ろう

 難問は分割せよ、と昔から言います。

 私の研究ノートは、A-3とかU-16とか、電化製品の型番のような記号でいっぱいです。これらは特定の作業に対応しています。例えば私の書いたある論文(につながる研究)では、A-8は「大正15年 生鮮食料品の消費支出に占める比率と店舗密度(S14、S35、S57、H9)の相関を取る」という内容を持っています。

 ひとつの番号のついた作業は、統計パッケージに与えるプログラムを1行変更しただけで済むものもありますし、新たなデータを打ち込む必要があるときは1日で終わらないこともあります。短時間で終わると、1日でいくつも作業を終わらせることができます。歴史の論文であれば、特定の資料から特定の命題を肯定(否定)する記述を見つける、などと言う作業もあって、こうなると数日終わらないこともあります。

 作業の進み具合が自分でわからないと、それは不安の種になります。わかれば、励みになります。結果を見ながら作業をどんどん追加していきますから、いつ終わるかはぎりぎりまでわかりません。というより、ここまでにわかったことで論文を書こうと決めるまで、研究に区切りはつきません。それでも、進んでいると言う感覚を自分で持つことは非常に大切です。

 取り掛かった作業から次々に新しい疑問が出てきて、新しい作業の計画が立っていくと、最初に立てた計画の一部がずっとあとまで積み残されることもあります。それは仕方がありません。逆に、作業を終えて結果を論文形式で書き始めたあとでも、書いているうちに曖昧な点に自分で気がついて、作業を追加する羽目になる場合もあります。そういうときは、今の自分と過去の自分が討論をしているような気持ちになります。

 研究に自分で区切りを作りましょう。そしてひとつひとつの区切りで、ひとつの(小さな)ことに結論を出すようにしましょう。誰でも最初は、自分の扱おうとしているテーマがどれくらい大きな(小さな)ものかわかりません。そのテーマに沿ってどんな命題を立て、どんな作業をしてその命題を守るかで、論文の長さや難しさはまったく異なったものになります。やってみないとわからないし、やってみるとわかってくるものです。小さな部分でこのくらいなら、完成の域に達するまでどのくらいかかるか。そこでカレンダーを見ます。2年間で終わるでしょうか。

 現実と向き合うことに慣れましょう。背の高い人がいます。背の低い人がいます。人には得意不得意があります。他の人なら同じ2年間を使えば、あなたよりいい論文を書くかもしれません。そんなことは関係ありません。自分の刻んだ目盛りに沿って、自分の2年間を精一杯使うことだけを考えましょう。


人には見えないドラゴン

 世界の誰も見たことがないものを、私は見た私は見たと騒ぎ立てるのが、論文です。研究して論文を書く作業は、他の人には見えないドラゴンと戦うのに似た、孤独な作業です。

続「超」整理法・時間篇 野口悠紀雄 中公新書 780円

 時間の使い方は、やはりとびきり忙しい人に聞くに限ります。将来に関する予定の立てかたについて、私がこの本に付け加えることはまったくありません。

 この本の41ページ以下に書かれているように、かなり遠い将来について、漠然としたイメージであれ見通しを持っておくことは、もっと短い時間について予定を立てるときに役に立ちます。きわめて短期の時間に適用する「TO-DOボード」と「すぐやるメモ」に近いものは、後で述べるように私も実行しています。

 しかし、予定とは遅れるもの、裏切られるものです。ここでは、こうしたトラブルに対する心のダメージ・コントロールについて考えてみます。


遅れの予防

 野口先生も書いておられるように、予定にはある程度の空白(予備)を置くことが重要です。しかし、単に空白を置いただけでは、空白を当て込んで作業がはかどらなくなります。

 空白は、不確実性に対応するためのものです。もしペースを自分で予想できる作業であれば、割り当てる時間は概ねそれに見合ったものにすべきです。もし強気の数字を設定してしまうと、無理がたたって続かなくなったり、体を壊したりする可能性が高くなります。逆に、不確実性を下げるため、自分のペースを客観的につかむ積極的な努力をすべきです。

 論文完成についてまったく不安を持たずに修士課程の日々を送っている人は、おそらく何かとんでもなく不幸な勘違いをしている人ですが、まずそんな人はいないでしょう。だからといって、不安に身を任せておいていいわけでもありません。この文章のいろいろなところに書いたように、適切な中間目標を含んだ作業計画を持つことは重要なのですが、それは日々の不安と戦うためにも有効です。毎日何か前進していると言う実感を持つことが、不安への特効薬なのです。


軽度の遅れへの対応

 遅れは遅れを呼びます。遅れはその日の達成感を失わせ、能率を下げ、別の活動への逃避時間を増やすからです。

 大きな目標が一向に達成できないときは、目標を分割して、手近な中間目標を作るべきです。少なくとも3日以内にひとつの項目が達成できるように、項目の大きさを調整しましょう。良い計画とは、目標の高い計画ではなく、日々の充実に貢献した計画です。

 計画全体について具体的なイメージを持っているほど、中間目標を決めやすくなり、いったん決めると身につくので、遅れへの対応が早くなります。実際、計画の成功・不成功はこうした中間目標の適切さに左右されることがしばしばあります。


重度の遅れへの対応

 宮崎駿氏のアニメ「魔女の宅急便」の中に、画家志望の若い女性が主人公である少女と会話するシーンがあります。(じつは会話しているふたりは同じ声優さんが演じています)思うような作品ができなかったらどうするか、という話をしていて、努力しても努力してもだめだったらどうするか、と少女に問われた画家志望の女性は、明るく叫びます。「もがくのをやめる!」印象的なシーンです。

 思い切って視点を変え、発想の柔軟さを取り戻すべきときが来ているのかもしれません。後ろ向きに全力で走ってみるのも一興です。

 斜め前へ進んでみるのもしばしば有効です。同じようなトピックスを違う文脈で研究している人の著書、あるいは研究者が参照しないような実用書を読んでみると、ヒントが得られることがあります。例えばひとつの小売店の商圏(来店客の住んでいる範囲)がいくらか、などという研究は経済学ではほとんどありませんが、経営学では田村正紀先生の研究がありますし、しょっちゅうそうした質問を受ける中小企業診断士の著書にはしばしば経験的な標準値が載っています。

 エネルギーの消耗を避けて静止することも有効な場合があります。勉強も手に付かないし息抜きをしても気が晴れない、というときが特にそうなのですが、(できれば数日)何もしないでひたすら寝る、という手があります。余計な力が抜けて、客観的な目が戻ってきます。


遅れの後処理

 私は長いこと、片づけなければいけない仕事を箇条書きにして作った予定を、わざと粗末な紙(主に不要コピーの裏)に書き出すことにしていました。そして達成できた項目は消していき、達成できないものだけ残った計画は破り捨てて、次の計画を立てました。もし記録が残っていると、自分の士気が下がってしまうからです。

 短期計画を次々に立てていって、都合の悪い過去は次々忘れる、という精神は、特に修士論文のような、実際にどれだけの時間がかかるかわからない作業には有効だと思います


おわりに

 すべてはつながっています。作業仮説を持つこと。中間目標と作業計画を持つこと。それに沿って作業すること。いったん全体の歯車が動き出せばすべてはうまく運び、どこかが錆び付けば全体が立ち往生します。論文執筆は、現在の自分と過去の自分が協力する、巨大なプロジェクトです。

 論文を書くことはゲームではありません。論文を書く過程には本物の危険があり、本物の栄光があります。周囲の人間には、自分の姿が不思議なくらい見えているものです。しかしそれでも、自分の論文の値打ちがわかるのは、結局のところ自分だけです。たぶんあなたも、論文を書いてみれば、そう思うはずです。

 あなたにしか見えないドラゴンと格闘する準備は、できましたか?

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