講義と単位認定に対する基本的な考え方

出典: Hnami.net

  • 更新履歴
1996.12.20 公開
2001.3.14 第4節を加筆
2002.8.30 第5節を加筆
2008.12.13 第6節を加筆

 この文書は、執筆時点における筆者の考えを述べたものであり、予告なく変更されることがある。また、この文書は、埼玉大学経済学部または並河個人が何かを約束するものではない。

 学生が喜ぶ講義運営と、学生のためになる講義運営は必ずしも同一ではない。しかし学生の意欲的・主体的な学習がすべての基礎であることは明らかなので、少なくとも学生に講義の方針を理解させ、一定の支持を受けることは良い講義の条件であろう。

 学生は、講義を受講し、単位認定を受け、それを卒業後に生かすという一連の流れから、総合的に講義についての評価を形成するものと考えられる。従って良い講義は、これらの面のいずれについても、意識的な努力が加わっていなければならない。

目次

講義の意義

 古い日本映画を見ていて、OLが事務書類を筆写で「コピー」しているのを見てカルチャーショックを受けたことがある。世界の歴史の中で、文献の複写が今ほど簡単になったのは、ごくごく最近のことである。

 それまでは、学術文献に接することのできる特権を持った人間から内容を聞き取り、個人の肉体的努力でこれを筆写保存することは、非常に有効な情報共有の方法であった。あなたはこの文書をWebで見ており、プリンタがつながっていれば印刷することもできる。こんなことは、数年前までは考えられなかった。

 現時点において、講義に出席しなければ講義ノートを共有できない、ということを講義出席の梃子にするのは合理的でないと筆者は考えている。ゆえに、市販の教科書を使わない講義については、講義ノートを公開することにした。

 しかし、筆者は諸君に、少なくともある程度講義に出ることを勧める。試験問題やレポート課題は一般に短いものだが、それを解釈して正しく教員との会話をかみ合わせるには、総合的に教員の人となりを理解することが必要だからである。講義ノートは平板なものであり、どこを強調するかを聞き取り損ねると、大要の理解を誤ったまま評価を受けることになる。そして、あなたがその講義の評価に満足しないとすれば、あなたはその講義に満足しないであろう。

 もちろん、単位は必要ないので講義ノートを読むだけで済ませるというのであれば、それも結構である。実際、現在では学術書を買うなり借りるなりして主体的に学習する手段は整備されてきている。折角大学に在籍している諸君は、大学を主体的・選択的に活用する方法を考えてもらいたい。もちろん諸君は、「4年間我慢していると学歴がもらえると聞いてきたんですけど」などとは言わないであろうから。

評価の方法

 教育熱心な若い教師がよく陥る過ちは、講義内容の精選にばかり気を配ることである。その結果講義は往々にして難しすぎる、あるいは盛り込みすぎるものとなる。もっと資源投入のバランスを考え、単位認定技術の向上にも時間を使うべきなのである。

 良い評価方法は、まず目標が明示された評価でなければならない。講義への参加態度と、評価の基準が有機的につながっていなければ、講義における努力を引き出すことができない。逆に、到達目標を明確にできないような講義は、学問としてどんなに価値があっても、内容が講義の形態になじまない。

 評価に差をつけることは、目標への誘因となる。努力に対して真の名誉を与えるためには、評価は公正でなければならない。

 筆者の担当する講義のほとんどは、議論をかみ合わせることが重要であり、評価のポイントでもある。大学入学前にさかのぼる訓練や気質の差によって、どうしてもこれが不可能な場合もある。そのような不幸な少数の例において、その受講者が人生をより有効に使うためにも、中間評価が行われることが望ましい。特に、悪い評価を受けた場合に、評価の理由は説明されねばならず、改善のポイントが示されねばならない。

講義の内容

 筆者は、エンターテイメントとしての学問を否定しない。商業上の評価が得られない分野の学者がテレビに出て研究費を稼いでいるのは、資源の不足を嘆きつつ何もしないでいるよりよほど積極的な態度であり、何より人生設計として華があると思う。しかし、大学において講義として提供する学問は、大学という教育機関のアウトプットが卒業生であることを考えれば、その場を面白く過ごして終わりであってはならないであろう。教育機関によるインプットが、諸君をどこか変えたところがなければならない。

 講義の内容は、何らかの再利用可能性を持つべきであると考える。ビジョンであれ歴史的教訓であれ、日々の考え方、過ごし方のどこかに根を下ろして生活を変えていく側面があるはずである。こうした観点から講義の内容を精選し、単に講義の内容を理解しているだけでなく、独自の応用を加えることを受講者に要求し、評価のための目標としたい。

 現実との対応、現実に関する知識はどんな学問においても一定程度必要であり、ある種の学問では学問の根幹部分に根を下ろしている。例えばある種の民事時効が10年と定められていたとすれば、それは泣いても笑っても10年であって9年でも11年でもない。知らなければあなたかあなたの会社は1億円の損失をみすみす生じさせるかもしれない。医学部生が血管の位置を間違って覚えていたら、刑事責任を問われる事態になるかもしれない。

 しかし、私の担当する多くの科目においては、講義で取り上げる例とまったく同じ状況をあなたが処理しなければならないことは、滅多に起こらない。従って、あなたが基本的な発想を理解して応用能力をつけたかどうかが、私の講義における再利用可能性の中身なのである。

 単に講義の内容をまとめて答案を作る人は、毎年大勢見受けられる。しかしそういう解答を望む教官は、講義ノートを公開したりはしない。講義内容を理解したことを示すことは重要であるが、羅列された項目の中から、具体的な問いかけに対して重要さの相対順位をつけることができなければ、その内容を自分で応用できるようになったことにはならない。


「大学改革」へ向けての流れ

 1998年11月に公表された大学審議会答申をきっかけに、大学における授業の在り方に関する様々な見直しが行われているが、その多くはこの基本方針にすでに先取りされているところであり、変更を要するところは少ない。

 1996年当時、講義のほとんどは通年4単位の科目であり、並河の単位認定そのものは今日のそれに比べ、かなり甘かった。受講登録者は科目によっては200人を越え、ある学年の経済学科学生の90%近くが受講登録した年もあった。その直後のカリキュラム改正により、私の担当する4単位科目は2単位科目に分割された。複数回評価の私にとってのコストが非常に高く、また評価の機会も半年に一度となったので、私は中間レポートを課すことをやめた。

 大学審議会答申は、学生が授業に出席し、日頃の予習・復習も行った結果として単位認定を受けるという原則を徹底するため、出席評価や課題提出を積極的に取り入れることを示唆している。また、内容の類似したレポートが激増したことと、厳格な成績評価に関する大学審議会など学外の関心が高まっていることを考えて、ミクロ経済学・ミクロ経済学入門における私の評価方法は1999年度以降大きく変化し、おそらくその結果として受講生は激減した(レポートで書けることを試験で書くよう要求したに過ぎないのだが、その結果は劇的であった)。再び中間時期での課題を出せる条件が整ったので、2001年度は何らかの出題をしたい。

 成績評価の厳格化と合わせて、講義の狙いおよび受講者への要求を最初の講義に提示し、それをそのまま成績評価の基準に生かすよう、1999年度以降心がけている。どういうわけか、この絶好のヒントを聞き逃す諸君が多いようで、科目によっては高い比率の不合格者を出す要因ともなっている。幸運にしてこの文章を読んだ諸君は、最初の講義を枕話と決めてかからず、よく内容を聞きとって欲しい。

 講義の双方向性を確保することも重要である、という議論が最近盛んである。2000年度の終わりに各講義で行われた学生による授業評価アンケートに、そのような項目があったのを御記憶であろう。現在の受講者数であれば、そのような運営も原理的には可能であるが、残念ながら2001年度の講義には間に合いそうにない。今後の課題として心にかけておきたい。

独立行政法人化時代を迎えて

 1996年時点で、私は大学教育の方法論や大学のあり方に関する議論をほとんど勉強していなかった。1998年に大学審議会答申が出たとき、書かれていることについて、個人レベルではすべて一定の対応ができていると私は感じた。2001年に私が書いた第4節は、この判断を引き継いでいる。

 ちょうどこのころ、私はいわゆるFDに関する本や、大学システムに関する本を立て続けに読み、また予備校などから発信されてくる、受験生事情に関する情報に接した。そして、大学の大衆化、大学のだぶつき、大学に与えられた役割の変化の3つは総合的にとらえなければならない、と判断を変えた。目の前の学生が質的に変化しているとき、それを考えに入れなければならない。誰に対しても「良い講義」「悪い講義」があるわけではないのである。

 現在の大学生は、むかし高校生に起こったのと同じ変化の下にある。大学に行ったからと言ってエリートのしるしというわけではない。また、大学にぜひ行きたいから大学に行く学生ばかりではないし、そのような学生でも大学に入れてしまう。このような状況で、大学が「学生にはやる気があるはずだ」と決めてかかって何の対策も取らないとしたら、それは無策といわれても仕方がない。

 大学では学生を刺激し、勉強しようという積極的な気持ちを起こさせることが最も重要であり、緊急に必要とされている。こう感じた私は第4節で「間に合いそうもない」と書いておきながら、最優先で講義の段取りを変更し、毎回全員に課題や感想を提出させ、コメントして返却する「コミュシート方式」を採用した。これは「大福帳」という名前で他校に取り入れられた例があるのをFDの本で読んだのが起こりである。例えば京都大学高等教育センターでは同種のものを「何でも帳」と呼んで実験講義に使っており、私の試みは先駆ではないが、孤立してもいない。

 この方法は受講者が多くなりすぎるとパンクする。私は講義を朝一限に揃えることでこれに対処したが、「毎回提出物がある」ことを「出席していれば単位が出る」サインと誤解した受講者が増加したため、遅刻者への扱いを厳正にする必要が生じている。

「個性化」を安易に叫ぶ論者が多いが、成功した個性化は模倣されるから、結果的にそれほど極端な大学の個性化は起こらないし、起こったとしても成功しないだろう、と私は考えている。そうではなくて、誰もが良いと思うことを誠実に、ひとつひとつ実行してゆく大学と、理屈や言い訳を並べるばかりでそれのできない大学が現れるのであろうと思う。

 いま埼玉大学経済学部に集う学生は、優秀な社会人となれる力があるが、積極的なコミュニケーションに少々劣る(おとなしい)という印象を受ける。このことも踏まえて、私は私たち埼玉大学経済学部の教育で最も大事なことは、次の二点であると考える。


問題を自分で見つけ、整理し、勉強して解決できる、総合的な力をつけること。

「言われたことができる」だけでは、ほとんどの職場では、「責任のある」仕事はできない。技術変化やグローバル化によって、誰も解いたことのない問題が毎日数限りなく生まれてくるようになってしまった。そして社会で暮らす人々にとって、現場でそうした問題を、限られた時間のうちにとにかく「解く」必要もまた、数限りなく生じてきたのである。

 そのためには、自分で勉強し、自分で考えて解く経験を積み、そのことへの自信と興味を社会に出る前に持っていないとうまく行かない。経済学部のように「特定のパターンの仕事ができる」という意味での専門性が薄い分野では、現代における大学教育の一番大切なことは、誰も見たこともない問題に取り組める力を伸ばすことなのである。それは大層なことではない。先例のないことに「どうします?」と判断を求められることなど、社会に出れば毎日のことなのだから。


他人とのコミュニケーション能力を、入学したときよりも高めること。言い換えれば、自分の意見や立場を説明し、他人の意見や立場を理解し、そして協力することが上手くなること。

 学生の皆さんも、「寒い時代になった」とおそらく感じているのではないだろうか。当たり前のことを守ろうとしない人が増えた。バレなければいいや、と考える人が増えた。自分のことをわかってくれないといって泣きわめき、他人の声には耳を貸さない人が増えた。よい社会人になることは、魔法の杖を持つことではない。当たり前のことを当たり前に保つために、誰も十分なことをしなければ、その当たり前は崩れてしまう。

 案外、人の意見を自分なりに整理し、自分の考えとの違いを手早く理解できる人は少ない。それはそうであろう。自分の考えすら整理できない人が、他人の考えを整理できるはずもない。他人を説得する練習と、他人の話を聞く練習は、だから表裏一体のものなのである。

サイト再構成にあたって

 コミュシートを使った講義は大きな反響を呼んだ。時間の初めには「家電中小小売店の生き残り策について考えを述べなさい」といった問題を板書し、それに沿った講義をする。そして最後の15分程度を使ってそれに答える。その答えは、講義内容を踏まえながら、自分の体験や講義外の知識と結びつけるよう要求される。要するに並河との対話がかみ合わなければいい点がつかない、ということである。そして毎回コメントをつけて返却する。

 この形式はコメントを書くことで、並河にとって恐ろしい消耗をもたらした。この講義が知られるにつれて、「毎週何かを書いていれば単位がもらえる」と受け止める受講生が増えたが、それらのシート内容は平板で、ひとつひとつ返事や評価を書くことが苦痛になった。「流通経済論」「取引慣行論」の廃止と同時に、並河はこの形式をやめた。将来、人数を制限できる講義が導入されれば、この経験を活かしたい。

 ミクロ経済学は相変わらず「採点のポイントを言っても、お決まりの場所に張った罠に受講生が頭から突っ込んでくる」状態が改善しなかった。インストラクショナル・デザインの考え方から言えば、講義での要求と評価の距離が縮まっていない、ということである。受講者たちは講義での要求から、それがどんな形で評価されるのかイメージできていない、と言い換えることもできる。だいたいミクロ経済学は他の科目の基礎であって、一定の理解に達していればヨシとして、少しでも多くの学生をそのレベルに近づけるべきものである。

 2007年度から、あらかじめ公表した50問の短答問題からランダムに5問を出題する形式に変更した。講義でもそれらの問題にひきつけた解説をするようにした。これによって全体の成績は劇的に向上した。ただ、基礎的事項ばかりであるゆえに「面白くない」講義となっている面は否めない。市販教科書を使用することで予習復習の便は増すが、その掲載順に講義がとらわれる面があり、講義内容を精選しPPT化することも考えている。

 大学院「ゲーム理論」は2004年から、基礎的解説に続いて受講生の抱える修士論文のテーマをゲーム理論風に整理し、発表してもらう形式を取っている。修士論文作成に資する講義となっていると自負している。

 2006年度から計量経済分析/計量経済学を部分的に担当するようになり、オープンソース統計パッケージRを用いたパソコン実習を行っている。ノウハウが蓄積してきたので、取り上げるトピックスを高度なものに置き換えて博士課程の講義にも拡大することを考えている。

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