大企業病の対策

ひとつだと思っていても実は違ったとか言うこともあるに違いない

  • よく求人広告で「〜グループの企業です」とか書いてあるのを目にします。大企業の関連会社だから怪しい会社じゃありませんといいたいようです。
  • 労働組合、あるいは労働者の代表者との間で文書化された約束をしないと、例えば多くの残業をさせたときに経営者が責任を問われたりすることがあります。
  • こうした「労働協約」を共通化している企業は、いくら親会社・子会社の関係があっても、労働者にとっては(その協約に書いてある事柄については)同じ労働条件が保証されていることになります。逆に、単純な仕事を低い労働条件でさせるために企業を切り分けたり、ごく少数の技術者を厚遇して引抜から守ったりするために、わざと労働条件の違う企業を分離することがあります。
  • 資本関係や役員派遣がなくても、特定のメーカーの製品ばかり売っていたりすれば、そのメーカーの要求は呑まないわけには行かないでしょう。例えば自動車ディーラーには、資本関係や役員派遣がほとんどないものもあると言われていますが、だからといって自動車メーカーの意向を無視など出来ないことは当然です。

いわゆるグループ支配・財閥支配

  • 1920年代まで、日本の会社は今からは想像もつかないくらい「株主のもの」でした。各財閥本社は関連企業の株を保有し、長期的に必要な資金は主に株で調達するのが当たり前で、銀行はもっぱら商業金融(他の企業との取引に必要な、短期間の貸し借り)を担当していました。だから企業の利益を全部株主に分けてしまって、それは違法ではないけれども次の事業のための資金が内部留保として社内に残らず、結局競争に負けてしまう企業も珍しくなかったほどです。
  • 逆に言うと、このころまでは、銀行自身にも今の目から見ると怪しい、小規模な銀行がたくさんありました。つまり預金者から集めたお金を関連企業の資金繰りにばかり使って、景気のいいうちは問題が表面化しないままでいる、などということもあったのです。
  • 1930年代以降、政府は銀行の経営健全化を進めるとともに、世界大恐慌を乗り切るための政策資金を(国による株保有でなく)銀行を通じた融資で企業に供給しました。長期資金まで借り入れで調達する日本風の資金調達方法はこのころから広まり、やがて軍需物資生産設備のための政策融資も同じような方法で行われるようになりました。
  • 戦後になると、独占禁止法で持株会社を作ることが厳しく制限され、株による産業支配が難しくなりました。企業は互いに株を持ち合って、経営に口を出さない安定株主を増やすとともに、銀行を通じた長期資金の融資を受け入れていきました。1960年代ごろまで、日本政府は「低金利政策」を取り、預金金利を低く抑えるとともに(当時の日本企業の利益率やインフレ率を考えれば)企業が低金利で資金を借りられるようにしました。これは、日本の金融市場が外国の市場と切り離されていたからこそ出来たことです。この時期、旧財閥系の大銀行が企業集団のリーダーだったといわれるのはこのためです。
  • ところが日本の市場が自由化されていくと、すでに高い信用を得た優良企業は、銀行借り入れを受けるよりも、低金利で社債や転換社債を発行して長期資金を借りたほうが得だと気づきました。日本の金融市場を国際市場とリンクした段階で、日本企業だけかせ安い金利でお金を借りることは出来なくなりましたが、世界から評価されている企業なら、自分のために低金利でお金を貸してくれる人は見つけられるのです。銀行などいなくても。
  • また、企業の損益を計算するルールが変わって、企業の持っている株式などは買ったときの価格ではなく、そのときの市場価格で評価するようになりました。ということは、本業以外の株をお付き合いで持っていて、もしそれが値下がりしたら、本業が利益を上げていても株式値下がり分の「損」に業績の足を引っ張られてしまいます。このことが株式持ち合いのデメリットを大きくして、持ち合い解消を考える企業が急に増えました。
  • ですから今、企業と企業の(取引上すぐにはメリットのない)結びつきは急速に薄れてきています。

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2008-12-11 (木) 22:19:28 (5616d)