経済学と経済

人の数より正義の種類は多い

  • 経済学は「希少性の学問」です。限りあるヒト・モノ・カネがどう流れるか、何に使われるかを問題とします。ですから資源配分に「優先順位」をどうつけるかが重要ですが、これがつかないようだと「専門的なアドバイス」はできないのです。
    • 例えば経済学者は地域の保育園から予算増額、職員組合から減税と賃上げ、学生自治会から授業料値下げの署名を求められるかもしれません。経済学者は小市民として、そのすべてに署名するかもしれません。しかし経済学者が専門家としてアドバイスを求められるのは、辻褄の合った政府予算の作成についてであって、母親と労働者と子供はそれぞれ大切かどうかではないでしょう。
    • 例えば二酸化炭素排出の削減目標をどれだけにするか、経済学者が一方的に決めることは出来ません。人が人として感じ、人として判断し、人としてケンカして、エイヤッと政治的に決めるしかないのです。削減するために生産活動を規制・調整すると誰の所得がどれくらい減るか、(不確かながら)推定することなら出来ます。
  • 特定の意味での「正義」を定義し、それを実現する一番負担の少ない方法を考えることなら、できるでしょう。たとえばこんなふうに
    • 犯罪が減れば、間違いなく人は死ににくくなります。医療も同様。医療予算を減らして同額を警察予算に回せば、病気で死ぬ人は増えて犯罪で死ぬ人は減るでしょう。良いデータがあれば、経済学の方法論でその数字を推定することは出来ます。合計の死者を最小にする計算すら出来るかもしれません。しかしそんな研究を「正義の研究」と呼ぶ人は少ないでしょう。毎年政府は、理屈があろうとなかろうと、無数にありうる配分比率の「どこか」を選んでいるはずです。それがたいてい、理屈も何もない「前年どおりの配分比率」だとしても。
  • 逆に言えば、経済政策の「方針を立てる」ことが「政治的な優先順位を定める」ことを意味するなら、それについては経済学者の意見などあまり聞くべきではないでしょう。政治的にケンカをして、政治のルールの中で決めるべきです。「チャップリンの独裁者」に「too much to think, too little to feel」という台詞がありますが、本当に大切なことであればあるほど、大方針は感性で立てて、そこに至る手段を理性的に求めることが適切だと思います。

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Last-modified: 2008-12-11 (木) 22:19:30 (5616d)